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2018年1月19日 (金)

部下の信頼が高かった大野治長

徳川家康は、豊臣秀頼と会見して、その美丈夫ぶりと聡明さを知って、危機感を持ち、早く豊臣家を滅ぼさなければ、徳川家が危ないと感じたようだ。それで、いろんな策謀を用いて、豊臣政権を揺るがして行く。その一つが最近よく使われる言葉のフェイクニュースだ。

つまり、あることないことをいかにも事実のように伝え、相手方を混乱させ、あるいは分断させる。有名な話が、秀頼は大野治長と淀殿が密通して生まれた子というもの。それが事実であれば、秀吉の本妻の寧々の勢力を分断できる。

実際のところは分からないが、噂は流布し、見事に、徳川の思惑通りに展開していく。果たして、大野治長は、そのような人物だったのだろうか。淀殿の信頼は篤いものがあったにしても、大野治長を悪人として捉えるのは江戸時代の創作のようにも思える。

彼について次のような話が伝わる。大阪城で敗戦を覚悟した大野治長は、草履取出身の米村権右衛門に、遺子(女子)を委ねる。彼は、大阪の陣で士分に取り立てられ勇戦した。戦後、彼は遺子を連れて江戸に下り、ひっそりと暮らしていた。

ところが、どこから情報が漏れたのか、密偵に捕まる。幕僚たちは、大野に後事を託されるくらいだから、重大な秘密を知っているに違いないと、大阪城の財宝のありかを厳しく追及する。

しかし、米村権右衛門は真っ向から否定する。彼が言うには、「主人大野は、戦いのことばかり考えていて、財宝のことなど一言も話したことはない。それだからこそ、我々部下は死に物狂いで戦った。主人は、いつも言っていたのは、金銀財宝など、いくらあっても負け戦になれば、塵芥(ちりあくた)同様だ。逆に勝てば、敵方のものは我らのものになる。すなわち、財宝を求めず、財宝に溢れるのだと」

続けて、「私の言うことはこれだけだ。いくら拷問にかけて白状させると言われても、それは武士に対して無礼だ。どのようになされようと決して口を割ることはない」と言う。このことが家康の耳に入り、彼を赦免したという。その後、彼は、大野の遺児を養うため、浅野因幡守に士官した。

このように下級武士にさえ信頼が高かった大野治長は、それなりの人物であったと考えられる。

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