古典文学・演芸

2018年7月 6日 (金)

大江匡衡の逸話 その三

この大江匡衡という人、学者ではあったが、上昇志向が強かった。それは道長への対応を見ても分かる。でも、思うようには、出世しなかったらしい。それで不満を漏らしていた。

ある時、大井川に行って、船に乗って上ったり下ったりして遊んだ。その時、歌を詠む。

かはふねに のりてこころの 行くときは

 しずめる身とも おぼえざりけり

「川舟に乗って、夢中になっている時は、(事故に遭って)身が沈んでしまうようなことも思わない」と。このような時は、務めの憂さも晴れると。

ついでに記せば、北宋の詩人・蘇軾の、ある詩(*注)に次のような言葉がある。

与可が竹を画くとき

竹を見るが人を見ない

豈(あに)、人を見ないどころか

嗒然として其の身を忘れる

(後略)

すなわち、「与可という人が絵を描く時は、竹を見るが、人は全く見ていない。いや、人を見ないどころか、我を忘れている」といった意味だろう。人間、物事に集中していると、世間のごちゃごちゃも一時忘れてしまう。そして、そういった時の方が、いい仕事ができる。

これは宮仕えにしろ、サラリーマンでも同じ。雑念を取り去った時、本当の仕事ができるのだ。でも、大江匡衡は、生涯、雑念を追い払うことができなかったという。家名を上げることに熱心であったことは分かるが、少し残念で哀しい。どこかの国の問題を起こした高級官僚に似てますなあ。

*注

蘇軾 「晁補之所蔵の与可の画ける竹に書す」

(このテーマの記事は、一応、今回で終了)

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2018年7月 5日 (木)

大江匡衡の逸話 その二

人間、それなりの高い地位に就くと、いろんな現象に敏感になるようである。それは極限で、決断を迫られるからだ。今は知らないけれど、かつては政治家トップや一流経営者と言われる方が占いに凝ったようだ。

彼らは、いろんなデータを元に決断を迫られるが、最終的には直観だと言われる。その上で、更に最後の最後は、そういうものに頼りたくなるのかもしれない。その心理は、非科学的なものであっても無視できなくなるのだ。

すなわち、決断力が鈍ると、その直観も働かない。そこで第三者にアドバイスを求めることになる。しかしながら、どんなアドバイスをしてもらっても、彼らは既に答えは決まっていることの方が多い。結局は、考え方の再確認をしているに過ぎない。

さて、平安時代、あの権勢を誇った藤原道長さえ、少しびびった事件があった。それは天皇のお后になっている彼の娘・彰子(しょうし)の御帳の中で、犬の子が生まれたことであった。どのような犬にしろ、当時からすれば、穢れが起きたことは、不審な出来事と思うのは不思議ではない。

道長は心配になって博学だと言われ信頼している大江匡衡に、このことを尋ねる。そうすると、彼は「これは、いい兆候です」と応え、理由として、「犬という字は、大という字の傍に点を打ちますが、その点を上に持っていければ、天になります。更に子という字を書き加えれば、「天子」になります。

また大の下に点を付ければ、太という字になり、子という字を書き加えれば、太子とも読むことができます。つまり、これは太子様がお生まれになり、やがて天子さまになられることを示しているのしょう、と言ったという。

こじつけとも言えるし、御用学者一流のごますりとも捉えられるが、心配りとも言えないこともない。その後、運よく、彼の言った通り、皇子の誕生があり、天皇になられたとのこと。そうなると、彼の読みは当たったことになる。まあ、結果が全て。彼は道長の、より高い信頼を得たことでしょう。

*参考

『十訓抄』

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2018年7月 4日 (水)

大江匡衡の逸話 その一

少し、大江匡衡の逸話について触れてみよう。変人の匡衡に対して、女官たちは、少しからかってやれと和琴を差し出し、「あなたは、博学だから、何でも知っておられると思いますから、これもお弾きになるでしょう。一つ聞かせてください」と言う。

匡衡が困るだろうと思っていたら、これに返事をせず、次の歌を返す。

おふさかの せきのあなたも まだみねば 

あづまのことも 知られざりけり

「おふさかの せき」は、「逢坂の関」。「こと」は、「事」と「琴」を掛けている。「あずま」は、「東」と「吾妻」を掛けている。解釈は、「逢坂の関も、越えてもいないのに、それより東のことも知りません」。裏解釈は、「どなたとも一線を超えて契りを結んでいないので、当然、我妻と言える人はいません」と。

これには、どの女官も返歌が返せず、当初の目論見が外れて、笑うこともかなわず、奧に引っ込んでしまったということだ。

現在でも、なかなか、このような返しをできる人は少ない。もちろん、いろんな世界で、インタビューしたこととは関係ないことを応えて、はぐらかす人はいる。それで笑いを取れる人、そうでない人。その評価は様々。結局、状況判断の是非ということになる。

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2018年7月 3日 (火)

赤染衛門と大江匡衡 その四(完)

実は、このやりとりの前に、二人の間では、いろいろあった。というのは、赤染衛門が、夫の匡衡に滅多に逢わず、冷たい仕打ちをするので、彼は、浮気心を発揮する。まあ、当時としては当たり前。

浮気相手は、稲荷神社の神主の娘。彼女を愛人として通っていた。だが、本当は、それほどには気に入らず、愛情は沸かない。それにもかかわらず、結構長く、留まっていた。そこへ衛門から、次の歌が送られてくる。

我が宿は、松にしるしも なかりけり

 杉むらならば たずねきなまし

これも独断で解釈。「松」と「待つ」。「杉」と「過ぎ」。そして、「杉」は稲荷神社の杉。「我が家の松は、見つけにくいので、いらっしゃらないのですね。杉むらだったら、迷わず訪ね来られるのだろうに」という感じの猛烈な皮肉。

裏を返せば、早く帰って来なさいよ、ということ。衛門も、やっと匡衡を夫として認めた。よく言われるように、焼もちや嫉妬は愛情の裏返し。それに気づいた彼は、愛人のもとを離れて、急いで衛門のもとに帰り、元の鞘に収まった。このことで。二人はやっと理解しある仲になったようだ。まあ、結婚生活はいろいろある。

その後は、彼も、尾張守になったりして、経済的にも安定し、子どもにも恵まれ、赤染衛門は幸せ者よと言われる。その仲のよさを示す歌が、次のもの。

匡衡が、妻と共に、尾張に下向した時、独り言を言う。

とうかのくにに いたりてしがな

これを下の句として、衛門が、上の句を付け足す。

宮こいでて けふここぬかに なりにけり

通しで解釈すると、「都を出てから今日で、九日になりました。十日には、尾張国に着きたいものだ」と別に、どおってことない内容だが、こういうやりとりができるのは関係が正常なこと。このように、おしどり夫婦になる道程は長い。

*注記

赤染衛門は、現代に言う教育ママ、ステージママであったようで、子どもの出世にまで口出ししている。親心は分かるが、ちょっとやりすぎの感じ。そのことは、ここで取り上げるのは止めた。

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2018年7月 2日 (月)

赤染衛門と大江匡衡 その三

大江匡衡は、妻に対して、募る思いを伝えていく。これはおかしいと思う人もいるだろうが、大体、見合い結婚すれば、結婚してから、相手を知って恋愛が始まることも多い。彼は道長に同行して、住吉大社にお参りした時、衛門に歌を送る。それが次のもの。

こひしきに 難波の事も おほ゛ほえず

 たれすみよしの まつといひけん

いろんな解釈が先生方によってなされているが、今一つピンと来ない。そこで、独断で解釈(間違っているかもしれないので、学生諸氏は無視して(笑))。

「あなたへの恋しい思いが強すぎて、難波に来て何をやっても、上の空。一体、住吉に誰が待ってくれているというのだ」と。赤染衛門のいないところに来ても、少しも嬉しくないという気持ちかな。

衛門の反歌が次のもの。

なをきくに ながゐしぬべき すみよしの

まつとはまさる 人やいひけむ

ところが、赤染衛門は、これを正直に受け取らず、皮肉を込めて返している。これも独断で解釈。「住吉という名を聞くと、居心地がよさそうで、長居しそうですね。私に優る、あの人が、そう、おっしゃいましたか」と。

裏解釈としては、「私のことは、もう、いいんですね。それなら、あなたを待つ気持ちはありません」という感じ。焼きもちと軽い嫉妬心と反発。この時期には、赤染衛門も、匡衡に傾いているとも見える。女心は時と共に変わる。男女の心のずれは複雑ですなあ(笑)。

次回に続く。

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2018年7月 1日 (日)

赤染衛門と大江匡衡 その二

実は、どうも赤染衛門が、大江匡衡と結婚したのは、歌の交流があって、好意を抱いていた男から突然、連絡を絶たれたことも影響しているのかもしれない。現代でも、ありそうな話。

ところが、古書(*注)に「赤染衛門といふうたよみは、(中略)、心ならず、まさひらをおとこにして、いとわかきはかせにありけるを、ことにふれて、のかひいといひ、あはじとしけれど、おとこはあやにくに、心ざしふかく成りゆく」とある。

つまり、大江匡衡のことは、はっきり言って、好きでなかった。大江匡衡は若い少壮学者とは言え、背はひょろりと高く、風采は上がらず、肩は出ていた(いかり肩)上、なりが少し変で、その歩き方も見苦しく、女性には人気がなかった。

それに、まだ大した功績もなく、官位も進まない。当時、衛門は、既に一流の歌人。わが身と比べてと考えると、彼女が敬遠したくなるのも分かる。以前、付き合っていた男の影響を惹きずっているとも考えられる。

ところが、その意に反して、結婚せざるを得なくなった。これは親の意向とも考えられるが、彼女は、当時、藤原道長に仕えていた。道長は、匡衡の能力を認めていた。多分、彼の強い勧めで、親の赤染時用を巻き込み、止む無く結婚したのではなかろうか。

彼女が結婚したのは、推定20歳から22歳。大江匡衡は24歳から26歳。当時としては、そんなに若くないとしても、選り好みしたい年代。それで、覚悟のできていない赤染衛門は、結婚したのに、匡衡を嫌って、何かと理由をつけて、遠ざける。ところが、ところが、男の方は、逆に、愛情が深くなっていく。何という皮肉。

*注

『古本説話集』等。

次回に続く。

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2018年6月30日 (土)

赤染衛門と大江国衡 その一

やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて

 かたぶくまでの 月を見しかな

   (百人一首 59番 赤染衛門)

この歌は、赤染衛門の姉妹(どちらか不明)に通う中関白藤原道隆が訪ねると言って、約束を違えたので、彼女が代詠したもの。「(おいでにならないことを知っていたら)ためらわずに、寝てしまったでしょうに。ついに月が西の山に傾くまで月を見てしまいましたよ」という感じ。

赤染衛門(あかぞめえもん。推定956年~1041年)は、平安中期の女流歌人。その出生は少し複雑で、母親の前夫の平兼盛と婚姻中に、身籠ったとされ、再嫁した赤染時用(ときもち)の赤染家で出産されたと言われる。こういうのは現代でもある。まあ、それはともかく、親権は、裁判で、赤染家になっている。

その彼女が、大江匡衡と結婚する。その大江匡衡(まさひら。952~1012)も歌人だが、本職は儒者。大江重光の子。大江家は、菅原道真の失脚後、儒家の中心的存在になった。そういう環境で育った。いわゆる学者一門の一人。

当時隆盛の藤原家と交流があり、願い文や奏上分などを代作している。文章博士・東学学士・式部大輔。学者としては一流であった。それゆえ道長の信望も厚かった。そういうところから、年号の勧進などもしている。また、単なる頭でっかちの学者ではなく、晩年、尾張に三度、叙せられたが、守地方官としても有能で善政をしたと言われる。

一般に、この二人はおしどり夫婦と呼ばれている。ところが、結婚当初は、必ずしも、そうでもなかったらしい。

次回に続く。

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2018年6月20日 (水)

謡曲『草子洗小町』を読む その三

だが、これを真に受けた天皇は、「小町は、歴史ある歌の家系なのに、なんてことを。歌の道も衰えたものよ」と嘆かれる。小町も、御前の前で恥をかくことに。小町は強く無念に感じる。小町は黒主に出典をただすと、万葉集にあるが作者は不明だと言う。

(ここら辺から、黒主の工作が怪しくなる感じ。大体、こういったことは、いつか、ボロが出る。)

小町は、万葉集七千首(*注1)を知らぬ歌はないと言う(凄いなあ)。それでも、もしや、異本があるのかと訝るが、黒主は、あくまでも、小町が、古歌を盗んでまでも、勝とうとした言い張る。

(まあ、疑われると、強気に出るのは、どこの犯人も同じ(笑)。)

小町は、いろいろやり取りする中で、どうやら黒主の悪だくみだと見破り、言い争う。あきらめきれず、黒主に、詰問するが、黒主は、シラを切り通す。更に、黒主は、証拠として、予め書き込んだ万葉集の草子を取り出し示す。

(多くの矛盾点を小町が指摘する。それに対して、ついに黒主が決めてと思っている偽装した証拠品提出。}

ところがところが、よく見ると、墨の色が違い、後で書き加えられたと思い、天皇の許しを得て、銀のたらいに御溝水(みかわみず。清水)を汲んで、一同の前で、草子を洗うと、加筆された歌だけが流れて消える(*注2)。

(まあ、偽装のいい加減さが露呈。プロなら、少なくとも、こんな過ちはしないだろう。)

嘘がばれた黒主は、もう逃げられない。これまでよと、自害しようとするが、帝も小町も、歌人の熱心さから来たことと許し、水に流す。小町に薄衣、風折烏帽子を着せ、笏拍子を打って座敷を静め、小町は勧められて舞を舞って、和歌の徳を称える。

(偽装が発覚して、自殺をしようとする黒主。最初から、こんなことを企まなかったら、、、)

人は、競争に、どうしても勝ちたいと思うと、こんなことになる。これは女には負けたくないと思った黒主の過ち。でも、現代でも、こんなことはあるだろう。

*注1

『万葉集』には、実際は約4500首、収録されており、7000首というのは間違い。

*注2

実際に、草子を水で洗うというのは、ちょっと無理筋。例えば、「月の光」で透かして見たと考えれば、文学らしくなる。月の光を「川」と「水」と捉えれば、意味が通じると思う。

*追記

もちろん、この謡曲の内容は、完全な後世の創作。時代の異なる人々を同時代に並べて、作者は楽しんでいる。なお作者は、世阿弥元清。

*追記

姫路キャスパホールでは、2018年8月19日(日)に、第25回記念キャスパ能として、『草子洗小町』が演じられる。

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2018年6月19日 (火)

謡曲『草子洗小町』を読む その二

それでは、具体的に、謡曲『草子洗小町』を読むとしよう。場面は、宮中の清涼殿における御歌合せの会。そこで、「水辺の草」という題で、大伴黒主が小野小町と歌を競うことに。

黒主は、とても、かなわぬ相手だと思い、悪いことと知りながら、小町の私邸に、もぐりこみ、彼女が作る歌を盗み聞き。そして、悪だくみ。万葉の草子に、この歌を書き込む。

  まかなくに 何を種とて 浮き草の

  波のうねうね 生い茂るらん

翌日、清涼殿では、柿本人麻呂と山辺赤人の影像を掛けた上で、天皇をはじめ、小町、黒主、貫之等男女の歌人が列席して、勝負が始まる。貫之が、小町の歌を詠みあげ、天皇が称賛される(*注)のに、黒主は、これは古歌だとクレーム。よくやるなあ。

*注

天皇は、なぜ、この歌に反応されて称賛されたのか。この歌の表面的な解釈は、「種を蒔いたわけでもないのに、何の種をもとにして、こんなにたくさんの浮き草を波の上に繁茂させているのやら」という、そんなに特別の歌ではない。

裏には、天皇家の繁栄を詠ったものとも言えるし、小町の私的な思いを表現したものとも捉えられる。また、小町がバイリンガル(古代朝鮮語)であったかは不明だが、この歌には、別の意味が込められており、天皇が察知したとも考えられる。残念ながら、その意味は不明だ。

次回に続く。

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2018年6月18日 (月)

謡曲『草子洗小町』を読む その一

今回は、久しぶりに、謡曲を取り上げる。今回は、小町関係の謡曲『草子洗小町(そうしあらいこまち)』を、何回かに分けて読むとする。

この物語の主人公は、六歌仙の内の小野小町と大伴黒主。小野小町は、その美貌から、後世、いろいろと厳しく取り上げられるが、この謡曲では、珍しく、小町を褒めたものだ。

『古今』では、小野小町は、「いにしへ(古代)の衣通姫の流なり。あはれ(憐れ)なるやうにて、つよ(強)からず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは、女の歌なるべし」と評されている。

衣頃姫は、以前にも取り上げたが、半島からの移民であると推察されている。その肌が透き通って見えることから、その名がついた。小野小町も、その系統の女性というのである。そして、極めて女性的と評している。

これに対して、もう一人の大伴黒主については、「そのさまいやし(卑し)。いはば、薪おへる(負える)山人の花のかげに休めるがごとし」と、けちょんけちょんに評されている(笑)。風体は、怪しく、杣人(そまびと)が美しい花のそばで休んでいる感じ。ちょっと言いすぎの感。まあ、体裁を構わない人だったのかもしれない。多分、変人だったのな(笑)。

ちなみに、小町は、『古今』には、十八首、収録されていて、大伴黒主は、三首のみ収録されている。その差は大きい。この謡曲の作者は、そういうことを意識して、作ったようにも思う。そのことを意識すると分かりやすいかも。

次回に続く。

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