古典文学・演芸

2018年9月19日 (水)

萩の花と古歌 2018

花の色は うつりにけりな いたずらに

 わが身世にふる ながめせしまに

   (百人一首 古今集巻二 小野小町)

キキョウは、既に咲いていたが、続いて、萩の花が咲き始めた。小野小町の上記の歌の「花」は一般的に「桜の花」とされている。しかし、人生の秋を感じるのなら、「萩の花」のような秋の花が相応しいと言えなくもないので、取り上げた。

萩の花を題材にした歌は『万葉集』巻第十にも散見される。

萩の花 咲きのををりを 見よとかも

 月夜の清き 恋まさらくに

    (万葉集 二二二八番)

流風には、この歌の解釈は難しい(苦笑)。以下、独断の解釈。でも、面白い歌。まず、萩の花が満開で、枝がしなるほど咲いている。この状況を見なさいとばかり、月は明るく照らしている。まさに恋心は募るばかりだ、という感じ。

それは、裏を返せば、彼への恋心は募るばかりで、自分の隠している心を照らし出すような月の光。萩の花のように、たくさんの花(女性)が彩るモテモテ男の誰かを、本当は自分も慕っているのを近くから見ている本人の心の情景かな。

萩の花 咲きたる野辺に ひぐらしの

 鳴くなるなへに 秋の風吹く

    (万葉集 二二三一番)

これは解釈は不要だろう。そのままの情景を詠った。見える情景と音の情景を重ねたのが巧い。

萩の花 咲けるを見れば 君に逢はず

 まことも久に なりにけるかも

    (万葉集 二二八〇番)

これも解釈は不要。萩の花に思い出のある彼氏との記憶を詠んだものだろう。回想気分かな。

まあ、秋になれば、女性に限らず、物思いにふける季節です。とは言いつつ、食欲が増して、体重オーバーが気になる所。でも、おはぎが食べたくなった(笑)。

 

 

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2018年8月19日 (日)

秋風と『万葉集』の七夕

まだ秋風が吹くというより、台風の影響による風。でも、気温も、やや下がり、過ごしやすい。だが、来週あたりから、残暑で、また厳しいかも。まあ、これは仕方ない。

さて、時期は少し過ぎたが、『万葉集』に七夕の歌を取り上げる。でも、旧暦では、七夕は秋。そういうことで、遅まきながらも取り上げることにした。『万葉集』では、憶良が12首、詠んでいる。その中から、1~2首、見てみよう。

天の川 相向き立ちて 我が恋ひし

 君来ますなり 紐解き設(ま)けな

   (巻八)

少し変な感じのする歌だが、これは憶良が織姫の立場になって作ったもの。衣の紐を解いて待つというのだから、若干、俗っぽい(笑)。織姫が、今か今かと彦星を待つ気持ちかな。今だったら、彦星が織姫を待つ歌になるかも(笑)。

もう一つは、

風雲は 二つの岸に 通へども

 我が遠妻の 言ぞ通はぬ

    (巻八)

これは七夕にこと寄せて、遠くにいる妻が、手紙の一本もよこさないのを憂いている。これは当時の通信事情から、妻が手紙をよこさないのではなく、よこせないことを恨んでいるとも取れる。風や雲は、天の川を自由に行き来しているのが羨ましいという気持ち。

最近は、電話に加えてネットで、瞬時に相手と会話をすることができる。ところが、これが却って、マイナスの効果を生むこともある。手紙のような余韻が残らないからだ。瞬時の会話では、相手の思いを十分考えることができない。

そこに齟齬をきたす。憶良の時代のように、やり取りが、なかなかできないのも不便だが、二人のためには、いいことかも。

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2018年8月13日 (月)

落語『稲荷車』について

姫路にも、お城近くで観光人力車が、活躍している。割と利用客がいるので、そういう需要があるのだなあ、と少し感心している。姫路城近くで結婚式を挙げた新婚さんや、旅行者と思われる人々が利用している。暑さ、寒さの中、人力車を曳いていくのは、大変なことだと思うが頑張ってほしいものだ。

さて、落語にも、人力車を扱ったものがある。それが『稲荷車(いなりぐるま)』。時代は、明治の初めごろの東京の話。無尽講(*注)に当たって、御馳走になった男が、夜遅くになったので、上野から王子まで、人力車を使うことに。

目的地の王子は、当時、かなり田舎。ところが、その車夫が大変な臆病者。それを見て、男は、いたずら心を起こして、車夫をからかうことに。というのは、男は、自分は、王子稲荷の使いの狐だと言うと、車夫は、それを信じ込む。

そして、自分の名前と住所を告げ、「ご利益をお授けください。車代などは、お賽銭として奉納します」と言う。そう言って、車代も受け取らず去っていく。男は、これを面白がって、家に帰るが、無尽に当たったお金がないことに気づく。

どうやら車の中に置き忘れたと思うが、ただ乗りしてきたため、取りに行きにくい。それでも、大金なので、翌日になって、車屋を訪ねると、車夫は車の中に大金があったが、これはお稲荷様がお授けになったに違いないと、長屋の連中を集めて、飲めや、食えやの大騒ぎ。

そこへ男が、顔を出し、「王子から参りました」と言うと、「福の神のご入来だ」と言われ、恐縮してしまい、「そんなにされては、穴にでも入りたい」とオチ。

つまり、車夫にネコババされて、男が言ったことが禍になり、逆にからかわれた形に。調子に乗ると、こういうことになる。好事魔多し、とは、まさにこのこと。でも、それが分かっていても、当事者になると、それを忘れるのが人間でもある。

*注

無尽講は、別名、頼母子講。限られた人数で出資し、当たると、資金が給付される。現在の地域金融に近い。商いに役立てるもので、宝くじではない。

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2018年8月 6日 (月)

鄭板橋の漢詩『偶然の作』を読む

中国の昔の人の詩句に次のようなものがある。

英雄なんぞ必ずしも 書史を読まん

ただ 血性を攄(のぶ)れば 文章となる

仙ならず 仏ならず 賢聖ならず

筆墨の他に 主張あり

これは清の時代の画家であり書家であった鄭板橋(てい はんきょう)の『偶然の作』と題する詩の最初の四句。なぜか、この部分だけ、中国文学研究家によって、取り上げられる。また彼の書は、隷書、楷書、行書が一体となった不思議な書風だが、現代日本でも人気があるようだ。

この詩句の解釈としては、次のようになるかもしれない。

「英雄にとって読書は必ずしも必要ではない。ただ自らの騒ぐ血の性を、そのまま表せば、文章になる。その文章は、仙人、仏、聖賢の範疇にも属さない。彼が書いたり画いたりしたもの以外に、その主張があるのだ」と。

これは何を語っているのか。英雄と言われる人は、「天の啓示(天命)」を受け、それを実行に移すことで、彼のオリジナリティーが示される。いくら学問をしたところで、これらは得られるものではないと言っているように思える。

すなわち、「天の啓示(天命)」を、直観で感じ取り、実行に移せることができる人のみ、英雄になるということだろう。やがて、「天の啓示」は志や使命感として反映される。

*追記

なお、清の文人で、当時、自由人と称された、袁枚(えんばい)さえも、「古代の聖人にとって、徳は心にあり、功業は世間にあり」、と同様なことを言っている。人々を動かす「本当の文章」は、国家をも左右するということだろう。

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2018年7月 6日 (金)

大江匡衡の逸話 その三

この大江匡衡という人、学者ではあったが、上昇志向が強かった。それは道長への対応を見ても分かる。でも、思うようには、出世しなかったらしい。それで不満を漏らしていた。

ある時、大井川に行って、船に乗って上ったり下ったりして遊んだ。その時、歌を詠む。

かはふねに のりてこころの 行くときは

 しずめる身とも おぼえざりけり

「川舟に乗って、夢中になっている時は、(事故に遭って)身が沈んでしまうようなことも思わない」と。このような時は、務めの憂さも晴れると。

ついでに記せば、北宋の詩人・蘇軾の、ある詩(*注)に次のような言葉がある。

与可が竹を画くとき

竹を見るが人を見ない

豈(あに)、人を見ないどころか

嗒然として其の身を忘れる

(後略)

すなわち、「与可という人が絵を描く時は、竹を見るが、人は全く見ていない。いや、人を見ないどころか、我を忘れている」といった意味だろう。人間、物事に集中していると、世間のごちゃごちゃも一時忘れてしまう。そして、そういった時の方が、いい仕事ができる。

これは宮仕えにしろ、サラリーマンでも同じ。雑念を取り去った時、本当の仕事ができるのだ。でも、大江匡衡は、生涯、雑念を追い払うことができなかったという。家名を上げることに熱心であったことは分かるが、少し残念で哀しい。どこかの国の問題を起こした高級官僚に似てますなあ。

*注

蘇軾 「晁補之所蔵の与可の画ける竹に書す」

(このテーマの記事は、一応、今回で終了)

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2018年7月 5日 (木)

大江匡衡の逸話 その二

人間、それなりの高い地位に就くと、いろんな現象に敏感になるようである。それは極限で、決断を迫られるからだ。今は知らないけれど、かつては政治家トップや一流経営者と言われる方が占いに凝ったようだ。

彼らは、いろんなデータを元に決断を迫られるが、最終的には直観だと言われる。その上で、更に最後の最後は、そういうものに頼りたくなるのかもしれない。その心理は、非科学的なものであっても無視できなくなるのだ。

すなわち、決断力が鈍ると、その直観も働かない。そこで第三者にアドバイスを求めることになる。しかしながら、どんなアドバイスをしてもらっても、彼らは既に答えは決まっていることの方が多い。結局は、考え方の再確認をしているに過ぎない。

さて、平安時代、あの権勢を誇った藤原道長さえ、少しびびった事件があった。それは天皇のお后になっている彼の娘・彰子(しょうし)の御帳の中で、犬の子が生まれたことであった。どのような犬にしろ、当時からすれば、穢れが起きたことは、不審な出来事と思うのは不思議ではない。

道長は心配になって博学だと言われ信頼している大江匡衡に、このことを尋ねる。そうすると、彼は「これは、いい兆候です」と応え、理由として、「犬という字は、大という字の傍に点を打ちますが、その点を上に持っていければ、天になります。更に子という字を書き加えれば、「天子」になります。

また大の下に点を付ければ、太という字になり、子という字を書き加えれば、太子とも読むことができます。つまり、これは太子様がお生まれになり、やがて天子さまになられることを示しているのしょう、と言ったという。

こじつけとも言えるし、御用学者一流のごますりとも捉えられるが、心配りとも言えないこともない。その後、運よく、彼の言った通り、皇子の誕生があり、天皇になられたとのこと。そうなると、彼の読みは当たったことになる。まあ、結果が全て。彼は道長の、より高い信頼を得たことでしょう。

*参考

『十訓抄』

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2018年7月 4日 (水)

大江匡衡の逸話 その一

少し、大江匡衡の逸話について触れてみよう。変人の匡衡に対して、女官たちは、少しからかってやれと和琴を差し出し、「あなたは、博学だから、何でも知っておられると思いますから、これもお弾きになるでしょう。一つ聞かせてください」と言う。

匡衡が困るだろうと思っていたら、これに返事をせず、次の歌を返す。

おふさかの せきのあなたも まだみねば 

あづまのことも 知られざりけり

「おふさかの せき」は、「逢坂の関」。「こと」は、「事」と「琴」を掛けている。「あずま」は、「東」と「吾妻」を掛けている。解釈は、「逢坂の関も、越えてもいないのに、それより東のことも知りません」。裏解釈は、「どなたとも一線を超えて契りを結んでいないので、当然、我妻と言える人はいません」と。

これには、どの女官も返歌が返せず、当初の目論見が外れて、笑うこともかなわず、奧に引っ込んでしまったということだ。

現在でも、なかなか、このような返しをできる人は少ない。もちろん、いろんな世界で、インタビューしたこととは関係ないことを応えて、はぐらかす人はいる。それで笑いを取れる人、そうでない人。その評価は様々。結局、状況判断の是非ということになる。

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2018年7月 3日 (火)

赤染衛門と大江匡衡 その四(完)

実は、このやりとりの前に、二人の間では、いろいろあった。というのは、赤染衛門が、夫の匡衡に滅多に逢わず、冷たい仕打ちをするので、彼は、浮気心を発揮する。まあ、当時としては当たり前。

浮気相手は、稲荷神社の神主の娘。彼女を愛人として通っていた。だが、本当は、それほどには気に入らず、愛情は沸かない。それにもかかわらず、結構長く、留まっていた。そこへ衛門から、次の歌が送られてくる。

我が宿は、松にしるしも なかりけり

 杉むらならば たずねきなまし

これも独断で解釈。「松」と「待つ」。「杉」と「過ぎ」。そして、「杉」は稲荷神社の杉。「我が家の松は、見つけにくいので、いらっしゃらないのですね。杉むらだったら、迷わず訪ね来られるのだろうに」という感じの猛烈な皮肉。

裏を返せば、早く帰って来なさいよ、ということ。衛門も、やっと匡衡を夫として認めた。よく言われるように、焼もちや嫉妬は愛情の裏返し。それに気づいた彼は、愛人のもとを離れて、急いで衛門のもとに帰り、元の鞘に収まった。このことで。二人はやっと理解しある仲になったようだ。まあ、結婚生活はいろいろある。

その後は、彼も、尾張守になったりして、経済的にも安定し、子どもにも恵まれ、赤染衛門は幸せ者よと言われる。その仲のよさを示す歌が、次のもの。

匡衡が、妻と共に、尾張に下向した時、独り言を言う。

とうかのくにに いたりてしがな

これを下の句として、衛門が、上の句を付け足す。

宮こいでて けふここぬかに なりにけり

通しで解釈すると、「都を出てから今日で、九日になりました。十日には、尾張国に着きたいものだ」と別に、どおってことない内容だが、こういうやりとりができるのは関係が正常なこと。このように、おしどり夫婦になる道程は長い。

*注記

赤染衛門は、現代に言う教育ママ、ステージママであったようで、子どもの出世にまで口出ししている。親心は分かるが、ちょっとやりすぎの感じ。そのことは、ここで取り上げるのは止めた。

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2018年7月 2日 (月)

赤染衛門と大江匡衡 その三

大江匡衡は、妻に対して、募る思いを伝えていく。これはおかしいと思う人もいるだろうが、大体、見合い結婚すれば、結婚してから、相手を知って恋愛が始まることも多い。彼は道長に同行して、住吉大社にお参りした時、衛門に歌を送る。それが次のもの。

こひしきに 難波の事も おほ゛ほえず

 たれすみよしの まつといひけん

いろんな解釈が先生方によってなされているが、今一つピンと来ない。そこで、独断で解釈(間違っているかもしれないので、学生諸氏は無視して(笑))。

「あなたへの恋しい思いが強すぎて、難波に来て何をやっても、上の空。一体、住吉に誰が待ってくれているというのだ」と。赤染衛門のいないところに来ても、少しも嬉しくないという気持ちかな。

衛門の反歌が次のもの。

なをきくに ながゐしぬべき すみよしの

まつとはまさる 人やいひけむ

ところが、赤染衛門は、これを正直に受け取らず、皮肉を込めて返している。これも独断で解釈。「住吉という名を聞くと、居心地がよさそうで、長居しそうですね。私に優る、あの人が、そう、おっしゃいましたか」と。

裏解釈としては、「私のことは、もう、いいんですね。それなら、あなたを待つ気持ちはありません」という感じ。焼きもちと軽い嫉妬心と反発。この時期には、赤染衛門も、匡衡に傾いているとも見える。女心は時と共に変わる。男女の心のずれは複雑ですなあ(笑)。

次回に続く。

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2018年7月 1日 (日)

赤染衛門と大江匡衡 その二

実は、どうも赤染衛門が、大江匡衡と結婚したのは、歌の交流があって、好意を抱いていた男から突然、連絡を絶たれたことも影響しているのかもしれない。現代でも、ありそうな話。

ところが、古書(*注)に「赤染衛門といふうたよみは、(中略)、心ならず、まさひらをおとこにして、いとわかきはかせにありけるを、ことにふれて、のかひいといひ、あはじとしけれど、おとこはあやにくに、心ざしふかく成りゆく」とある。

つまり、大江匡衡のことは、はっきり言って、好きでなかった。大江匡衡は若い少壮学者とは言え、背はひょろりと高く、風采は上がらず、肩は出ていた(いかり肩)上、なりが少し変で、その歩き方も見苦しく、女性には人気がなかった。

それに、まだ大した功績もなく、官位も進まない。当時、衛門は、既に一流の歌人。わが身と比べてと考えると、彼女が敬遠したくなるのも分かる。以前、付き合っていた男の影響を惹きずっているとも考えられる。

ところが、その意に反して、結婚せざるを得なくなった。これは親の意向とも考えられるが、彼女は、当時、藤原道長に仕えていた。道長は、匡衡の能力を認めていた。多分、彼の強い勧めで、親の赤染時用を巻き込み、止む無く結婚したのではなかろうか。

彼女が結婚したのは、推定20歳から22歳。大江匡衡は24歳から26歳。当時としては、そんなに若くないとしても、選り好みしたい年代。それで、覚悟のできていない赤染衛門は、結婚したのに、匡衡を嫌って、何かと理由をつけて、遠ざける。ところが、ところが、男の方は、逆に、愛情が深くなっていく。何という皮肉。

*注

『古本説話集』等。

次回に続く。

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