考え方

2017年3月15日 (水)

人の世話ということ

子供の頃、親からは、人の世話になることは極力避けよ、とよく言われた。だが、この世の中は、一人ではやって行けないことも確か。世話になっているつもりはなくても、どこかで世話を受けている可能性もある。

親の言っていたのは、多分の金銭がらみのことであろう。多くの犯罪は、金銭の貸借から生じる。よって、世話になる、すなわち金を借りることだけでなく、世話をする、つまり貸す方もトラブルに巻き込まれる。貸せば、返却期限にきちんと返って来ればいいが、そうならないことの方が多い。

結局、双方が気まずくなり、関係が破綻し、それ以上の憎しみを持ったりする。よって金銭上の世話になることは避けることが必要だ。それが、たとえ少額であっても同様だ。人間関係を正しく保つには、日頃の心がけが重要で、借金が必要にならないような生活の仕方が問われる。

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2017年3月13日 (月)

失敗は成功の素~『菜根譚』より

久しぶりに『菜根譚』を取り上げよう。失敗は成功の素と、よく言われるが、同様のことが、『菜根譚』でも語られる。

 未だ就(な)らざるの功を図るは、

 既に成るの業を保つに如(し)かず。

 既往の失を悔ゆるは、

 将来の非を防ぐに如かず。

解釈としては、次のようになるかもしれない。

「未だ見通しのつかない成功に頭を悩ますより、既に成功している事業を一生懸命に続け発展させる方が価値がある。また、既に失敗してしまった過去のことをくよくよするより、将来、同じような失敗をしないようにすることの方が大切だ」

過去の失敗に囚われたり、未来を夢想するより、現実を直視せよ、と言っているように思える。

 

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2017年2月25日 (土)

蘇軾の三養

今回は、蘇軾の言葉。蘇軾は、蘇東坡のこと。彼が、「三養」という言葉を遺している。三養とは、福、気、財を養うことを指す。

すなわち、身分が安定すると福を養い、胃を休めると気を養い、無駄遣いを戒めると財を養うということを言っている。

尤もなことと思うが、凡人は、忘れがち。望み過ぎず、改めて気を引き締めたい。

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2017年2月 2日 (木)

情報を捌く力

現代のように情報が溢れる時代には、各個人に情報を捌(さば)く力が求められる。かつて「情断」という言葉が作られたが、無駄な情報や作為の情報は断つのが望ましい。問題は「無駄な情報や作為のある情報」とは何かということ。常々、そういう問題意識がないと、現代人は忙しく、情報に流されてしまう。一体、どうすればいいのか、難しい問題だ。私自身も試行錯誤の毎日だ。一般的に言われてるのは次のこと。

一、自分で情報を捌く技術を身に付ける

自分にとって何が重要な情報かの見極め。

二、情報を捌く技術を持つ人の意見を参考にする

やはり情報収集・分析専門家の声は参考になるかも。

三、確実な情報を流す情報源にのみアクセスする

マスコミ等媒体の信用度の再確認。またネット情報の信用度の確認。その上で、各種情報に接しても、丸呑みしない。自分で考えるくせを付ける。

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2017年1月26日 (木)

壮年、老年の天分

若い人たちで、解決できないことがある。その時、ベテランが乗り出して、解決する場合も多い。伊庭貞則は次のように言っている。

「壮年、老年、おのおの与えられた天分がある。若い者が出ては事が荒だち、老人が顔を出すと何一つ難しい理屈を言わずとも、丸く収まることがあるから妙じゃ」と。

もちろん、いつもいつも、壮年や老年が乗り出して解決することはないかもしれない。伊庭が言っているのは一般論で、最近は、壮年、老年が乗り出すと、かえって、こじれることもある(笑)。

よって、相談するのは、それなりに認められた壮年、老年でなくてはならない。若い人たちは、壮年、老年が、それなりに経験を重ねており、彼らに相談して、知恵を借りるのも悪くない。

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2016年12月19日 (月)

蓋し、この身と、、、

『千字文』に、「蓋(けだ)し、この身と髪は、四大と五常よりなる」という一文がある(*注)。身と髪とは、身体髪膚のこと。四大とは、地水火風のことで、人間の体の構成要素を指す。五常とは、仁義礼智信のことで、身を立てるための精神的要素を指す。

詳しい説明は避けるが、自分が何からなっているのか、時々考えてみるのも悪くない。

*注

但し、原文は、「蓋此身髪 四大五常」

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2016年11月23日 (水)

競争について

人生に於いて適切な競争は自分の価値を高める。すなわち、ライバルを持つことにより切磋琢磨して上を目指すには大切なことだ。最近の若い人には、最初から競争をあきらめる雰囲気も感じられるが、それでは、生き抜くことは難しい。

もちろん、度を越した競争は、宜しくないことは確かだ。ライバルを認めつつ、自分の良さを確認して競争するのが理想的だ。最終的には、ライバルと組んで仕事をする可能性が高い。つまり結果的に役割分担して棲み分けという形を取ることが多い。

ただ、そういうことを十分理解した上で、競争しないという選択も成り立つ。何度か挑戦し、いろんな工夫をしてみたが、質的にも量的にも勝てない相手の場合の選択だ。まともに戦えば、自らを害すということが想定される場合は、競争を避けるのも処世術だ。

経営的には、「ナンバーワン」より「オンリーワン」と言ったりする。巨大なライバルが立ちふさがるとき、ライバルが手を付けない分野を探し出して、その分野で第一人者になればいい。そういう生き方もある。

日々競争をしていると「競争しない」という発想は忘れがちだが、案外、それが生き残れる方法であることも多い。競争心は忘れてはならないが、無暗な競争をしないというのも生き残るには大切なことである。

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2016年11月15日 (火)

難を避けるには~『老子』六十三章から その三

引き続き、『老子』第六十三章を読む。

夫れ軽諾は必ず信寡く、多易は必ず難多し。

是を以て聖人すら猶之を難んず。

故に終に難きこと無し。

まず、「夫れ軽諾は必ず信寡く、多易は必ず難多し」とは、「ところが、約束を軽々しくする者は、その信を守ることは少なく、物事を軽く考える者は、必ず困難に直面するものだ」と。

約束の大小にかかわらず、守っていくことは大切。信用は約束の積み重ねだが、一つの約束を破ることで、信用は、あっという間に崩れていく。人間社会は、常に危ういことを知る必要がある。

次に「是を以て聖人すら猶之を難んず。故に終に難きこと無し」とは、「このように見ていくと、聖人は、どんなことも、大問題の始まりと捉えるため、結局、大きな困難にぶつかることはない」と。

結局、当たり前のことを当たり前に処し続けていくことが、難局を避ける手段だと言っている。このことが、案外、難しい。そのためには、何をすべきか。老子が与えた課題と言える。

以上、三回に亘って、『老子』六十三章を見てきたわけだが、いつ読んでも、いろいろ教えられる。

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2016年11月14日 (月)

天下の難事、大事~『老子』六十三章から その二

引き続き、『老子』第六十三章の内容を見てみよう。

難を其の易に図り、大を其の細に為す。

天下の難事は、必ず易に作(おこ)り、

天下の大事は、必ず細に作る。

是を以て聖人は終に大を為さず。

故に能く其の大を為す。

まず、「難を其の易に図り、大を其の細に為す」とは、そのままの解釈でいいだろう。すなわち、「難しいことは、まだ易しい段階で処理し、大きいことも、まだ小さいうちに処理すれば問題ない」と。

次に、「天下の難事は、必ず易に作(おこ)り、天下の大事は、必ず細に作る」。同じように、「天下の難問題は、必ず易しい小さい問題から発する。天下の大問題も、必ず些細な問題から起こる」と。

「是を以て聖人は終に大を為さず。故に能く其の大を為す」とは、「このように、聖人は、大問題が起こらないようにする。その結果、聖人は、大を為すに至る」と。

このような当たり前に見えることを、案外、多くの人が見逃している。小さい現象にも、変だなと思ったら、立ち止まってみるのは大切。そういう意味では、惰性や慣れが一番怖い。見えるものも見えなくする。『老子』はいろいろ教えてくれる。

次回に続く。

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2016年11月13日 (日)

怨みに報くゆるに~『老子』第六十三章から その一

久しぶりに『老子』を取り上げてみよう。今回は、第六十三章。長いので、何回かに分けて読んでいく。

無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。

小を大とし、少を多とす。

怨みに報くゆるに徳を以てす。

難を其の易に図り、大を其の細に為す。

天下の難事は、必ず易に作(おこ)り、

天下の大事は、必ず細に作る。

是を以て聖人は終に大を為さず。

故に能く其の大を為す。

夫れ軽諾は必ず信寡く、多易は必ず難多し。

是を以て聖人すら猶之を難んず。

故に終に難きこと無し。

例によって、いろんな解説書を読んでみたが、やはり諸橋轍次氏の解釈は怪しい。日本語になっていない。彼は故人だが大学の名誉教授で文学博士。でも、彼の解釈は、いつ読んでもちんぷんかんぷん。果たして、彼が『老子』を正しく解釈していたのか、きわめて怪しい。

次に、山室三良氏の解釈は、諸橋轍次氏の解釈よりはましだが、学者的分析評論になって、全体の解釈を示していない。よって一般人向きではない。

やはり王明氏による解釈が一番分かりやすい(『老子(全))。彼の解釈に山室三良氏の解釈を取り交ぜながら、自分なりに解釈しておこう。

まず「無為を為し、無事を事とし、無味を味わう」。無為とは有為の反対。有為が智や功と考えると、無為の意味がわかる。無事とは、これも有事の反対と考える。有事とは成功や功業を指すと考えると、おのずと無事の意味が分かる。そして、無味とは、有味の逆と捉えればいい。有味とは、利欲と考えればいい。さすれば無味の意味が分かる(*注)。

次に、「小を大とし、少を多とす。怨みに報くゆるに徳を以てす」を見ていく。これは要するに、大きい小さいに関係なく、多くても少なくても関係ない」と次の言葉に続く。「怨みに報くゆるに徳を以てす」とは、「どんな怨みに対しても、徳によって対応していく」と。

ちなみに、「怨みに報くゆるに徳を以てす」は、蒋介石が、戦後、日本に対する賠償金を請求しないとした時に発した言葉として有名。これに対して、いろいろ言う人たちがいるが、逆の立場に立った時、果たして、日本が、そのように対処できたかどうか。父さえも、大陸の人は言うことが違うと感心していたことを思い出す。

*注

王明氏は単に「味なき味」と解釈している。これでは、何のことか分からない。解釈としては、やや問題があるように思う。

次回に続く。

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