考え方

2009年10月30日 (金)

姿は俗性をあらわす

まっちょこさんが、モデルの話として、「見た目やファッションは、相手へのおもてなし」ということを紹介されているが、全く同感だ。流風も、子供の頃、母に、「贅沢なものは身につける必要はないが、常に清潔で、こざっぱりとした身なりをしなさい」と、よく言われたものだ。

更に、「特に、男は、仕事は戦場だから、どこで討ち死にするかもしれない。だから、病院等に搬送されても、恥ずかしくないように、下着だけは、清潔でできるだけ新しいものを身につけなさいと」と言われたことを時々思い出す。

まあ、母の表現は多少大袈裟のように感じられたが、得心できる部分もある。誰もが、家の代表であるだけでなく、個人は個人の代表である意識を持て、と言うことだろう。それが接する相手にも、よい印象を与える。

やはり身だしなみは大切だ。だから、外見は意味を持つ。外見は内面を語る。男の場合は、茶髪、長髪は出入り禁止にしたいぐらいだ。もちろん、だらっとした服装も駄目。ピアスや、たくさんの指輪もおかしいだろう。

きちっとした身なりは大切だ。そして姿勢も大切。姿勢の美しさは、実際以上に見せる。訪問者は、自宅で、どんな格好をされようと自由だが、わが家には、変な格好で来てくれるな、と言いたい。

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2009年10月15日 (木)

お勧めとは

時々、お勧めの本とは何ですか、と聞かれるが、返答に困る。流風は、書評で、本を買わない。書店で、実物を確認して、気にいったものだけを買い求める。本を読む動機は、何らかのきっかけだが、それに対応する書籍を探すことになる。

だが、他人に、それを求めたところで、成功するとは限らない。雑誌にも、夏、冬に、著名人が推薦図書を挙げているが、ほとんど参考にならない。確かに学生時代とか、社会人になりたての頃は、参考にした時期もあるが、それ以後は皆無だろう。

必要とする図書は、各人異なって当り前だ。人に薦められて読むというのは、主体性がなさすぎる。また最近のベストセラーも読まないことは以前にも記した。立ち読みしてみて、たまたま購入したものがベストセラーだったものを除いて、そのようにしている。

それは映画もそうだ。映画も、最近は、ネットで、事前に、上映される映画のホームページから、内容を確認して、観ることが可能になった。だから、映画評で、いくら評判がいいからといって、観に行くことはない。あくまで、自分の感性に合うものを選択する。

学生時代を除けば、その必要とするものは異なる。確かに専門書のようなものは、ある程度、評価が定まったものがあるかもしれないが、一般書では、そういうことはないだろう。他人の評価に惑わされず、自分の目で、確認したいものだ。

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2009年9月25日 (金)

一つの言葉

色々整理していたら、10年以上前のメモが見つかったので、転記しておく。多分何かで読んで、記録していたのであろう。

  一つの言葉で喧嘩して、

  一つの言葉で仲直り。

  一つの言葉で泣かされて、

  一つの言葉で嬉しくなる。

  優しい一言なるべく増やし、

  きつい一言減らそ。

  一つの言葉は宝です。

  大事に上手に一つの言葉。

今更ながら、読み返すと、流風も、知らず知らず、他人を傷つけているのだろうなと、自戒の念。無意識に傷つけてしまうのが、一番怖い。言葉が多いと、そういうリスクも負う。なかなか奥深い言葉です。

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2009年9月10日 (木)

和熟一致ということ

倹約に励んでいた当時、何かと批判された尾張の徳川宗春は、最終的には、幕府から、隠居、蟄居の身となる。幕府は、倹約に励めと言っているのに、宗春は、反対の贅沢を繰り返した。幕府としては示しがつかないから、彼を罰として引退させたのだ。

この問題は、現代の日本のように財政状況が厳しい状況下で、為政者がどういう方策を取るべきなのか、示してくれる。倹約はしなければならないが、その一方で経済を活性化しなければ、国民経済は窒息してしまう。そこまでは行かなくても、息苦しい世の中にしてしまう。

人々の倹約生活の連続には限界があるということだろう。宗春は、やたらと締め付ける幕府のやり方に反抗したものと言える。それは庶民の気持ちを代弁していたのかもしれない。だが、国としての統制は乱れる。結局、彼は隅に追いやられる。彼のやり方も、極端に偏った手法だった。

この宗春が、その実際はともかく、割といい言葉を遺している。それは、「和熟一致」というものだ。国が何か課題を抱え、改革していくには、立場を超えて、全ての人の納得、信頼がなければならないというものである。よい政治と思っても、立場が違えば、それはよくないと映る。当然、そこには批判がある。

それを乗り越えるには、お互いの信頼なくして、前には進まない。仮にごり押ししても、将来に禍根を残すのみとなる。それなら、多少時間がかかっても、お互い理解しあえるまで、話し合わなければならない。そして、多くの人々は、自分の立場を捨て、過去のしがらみを捨てることが大切だ。その意識転換が大事なのだ。意識転換させる努力が為政者には求められる。結局、信頼に基づく改革は、はやくなる。

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2009年8月24日 (月)

励ます人

励ます人、なんて書くと、お前、ハゲ増す人じゃないかと言われそうだが、流風は、何も手入れはしないが、髪の毛は黒々としている。何かつけているのではないかと、よく言われるが、決して何もつけていません(笑)。まあ、年齢の割に黒々としているかもしれない。髪の毛は、薄くなってきたが、それほど気にするほどでもない。

さて、本題に戻り、励ます人とは、世の中、励まし、励まされで成り立っているのでは、と思うことがある。まあ、人によっては、他人の励ましなどいりませんという方もいらっしゃるだろうが、人間というのは弱いものだ。ちょっとしたことで傷ついたりする。

どうでもよいことにくよくよしたりすることもあるだろう。それを励まされると、本来の自分に戻る。それはお互い様だ。流風も、落ち込んだ人がいれば、できるだけ励ますようにし、元気がありすぎる人には、辛口のコメントをしたりしている(笑)。ブレーキとアクセルね。否、飴と鞭か(笑)。

こういうことを書くと、もたれあいは、よくないと言う人がいるかもしれない。でも、「人」という文字は、そのようになっている。お互いが支えあうのが、人間社会だろう。ただし、励ましは、相手に本来の自分を気付かせることが大切だ。それは甘えとは違う。

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2009年8月17日 (月)

手帳へのメモは、霊感の宝庫か

本田静六氏が、かつて、「手帳へのメモは霊感の宝庫」と、語っている。人間の記憶は、いい加減なものだから、すぐ忘れてしまう。流風も、若い時は、メモなしで、できたことが、年々歳を重ねるにつれて、記憶があやふやになりがちだ(悲)。

だから、氏の仰っているように、瞬間、瞬間を大切にするためには、その瞬間に閃いたことを、メモすることが、人生を有効にするのだろう。瞬間、瞬間を大切にして、感じ取ったものを逃さないように大切にする。

そう言われれば、だらだら時間を過ごせば、無意味な時間を失うことになるのだろう。意外と日常生活に追われている時は、いいが、暇ができた時の意識の持ち方としては、大切なように思う。

もちろん日常生活においても、閃きの瞬間はあるが、いい閃きは、その合間にあるように思う。閃きに対する、個人の価値観は、それぞれ違うだろうが、別にたいしたことではなくても、生活に味付けしてくれるものは、すべてそうなのではないだろうか。

でも、流風には、なかなか霊感というわけにはいかない。集中力が足りないんだろうな。今日からは本格的に暑くなりそうだ。暑さに負けて、閃きがぼやけないようにしよう。そうしたものの積み重ねは、これからの人生を豊かにしてくれるのかもしれない。そう思えば、今後もメモを大切にしよう。

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2009年8月11日 (火)

一つの中にある区別

よく父が、この世は相対的であり、絶対的でないと言っていた。若い時は、何を言っているのやら、と思っていたが、中年になって、突き詰めれば、そうなのだろうと思うようになった。欧米社会を中心に、区別ということが当たり前になり、区別がさらに差別になっている。区別の固定化は、社会を停滞させている。

しかし、区別すると言うことは、その元は、一体であるはずだ。区別する前の社会を見渡せば、区別する社会は、おかしいのかもしれない。社会を運営するために、区別は生み出されたものであろうが、それは手段であり、それが無条件に引き継がれるのは、問題が多いかもしれない。

社会の進歩を促すには、やはり役割の変更が求められる。それが組織を活性化させる。そうすれば、区別も有用な手段になる。つまり問題になるのは、区別を固定化することであり、時代に応じて、区別を変更していくことだろう。

*追記

これは、個人の変革においても必要である。年配者は、自己の経験による判断に頼りがちだが、それを見直す勇気は大切だ。

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2009年8月 7日 (金)

忠告の仕方

人に忠告するのは、なかなか難しい。忠告される側が忠告を受け入れる体制であればいいが、忠告しようとする時は、案外、受け入れ体制にない場合が多い。すなわち聞く耳を持たない場合が多い。

大体、忠告というのは、忠告する側が、される側より、「上位」の気持ちの場合が多い。それゆえ、「絶対、こうするべきだ」とか言いがちだ。しかし、そういう気持ちは、受ける側にも、伝わるから、忠告は、むしろ反発される。

流風の経験でも、よく父に諭されたが、父の忠告が耳に入るのは、時間が経ってからであったと記憶する。言われた時は、反発するが、後で、父の言っていたことを冷静に考え直すと、父の言うことが正しいとわかる。そうして、やっと受け入れられる。

ということは、忠告は、しつこくしてはならないということかもしれない。忠告される側は、聞いていないようで聞いている。忠告は、時間をおいて、受け入れられる可能性が高いということだろう。それでも、どうしても受け入れられない場合は、再度忠告するか、放置するしかないのかもしれない。

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2009年7月19日 (日)

財布の底と、、、、。

財布の底と心の底は人にみせるな、とはよく言うけれど、どうなのだろう。地域によって、この考え方に温度差はあるかもしれない。されど、意味の深い言葉ではあるだろう。

財布の底を他人に見せるなというけれど、これは案外、夫婦のなかでも、言えることかもしれない。夫の方は、常に、お小遣いが足りないと、妻に、いかに無心するかに腐心する。妻からお小遣いをもらうのは、随分変だけれど、そういう家庭は多いようだ。

そして、妻の方も、いかにお金が足りないと言って、夫の働きが足りないと文句を言うが、しっかり、へそくりはしている。そういう状況は、全国どこの家庭でも、見られるのではないだろうか(笑)。

それは夫婦は所詮、他人ということから、そうなるのかもしれない。ただ、これが、はっきり他人であれば、もっとはっきりしている。財布の中身が少なくても、他人からは、裕福そうに見せかける術も必要だろうし、逆に、財布の中身は厚いのに、ビンボー臭く見せるのも、一つの技でああろう。

だから、この考え方は、単に見栄張りを批判しているだけでなく、仮にお金が手元になくても、心は豊かに、と言っているのかもしれない。お金があれば、心が豊かになるとは言うけれど、お金の欲は際限がない。お金で、心を貧しくするのは、避けたいものだ。そうかと言って、ある程度のお金を持たないと不自由だ。その辺の塩梅が難しい。

次に、心の底を他人に見せるな、というのは、ビジネスの世界にいれば、誰もが経験していることだろう。商売には、誠実さが求められるが、あまりにも馬鹿正直では、商いに勝つことはできない。それはライバルに対してもそうだし、顧客に対してもそうだろう。そして、もちろん投資家に対しても。

確かに、嘘はいけないし、顧客に変なものを提供するのは論外だ。しかし、それ以外では、いろんな工夫が求められる。市場環境の予測は、各社見方が違うわけだから、それをトップが、マスコミに正直に話し過ぎるのもどうかと思うし、投資家に対しては、常に厳しい見通しを告げるのが正しいだろう。

顧客へは、現状の商品の正しい情報は伝えるべきだが、やたらと新製品の情報は、オープンにすべきでないだろう。顧客に伝えたつもりが、ライバルによって、取られることはよくあることだ。トップの口の軽さを苦々しく思っている社員も多いはずだ。

政治の世界では、与野党の政治家も、最近はマスコミに出演して、得意そうに、ぺらぺらしゃべる方々がいるが、三流の域をでない。あれじゃ、一般素人と何のかわりもない。国民の雰囲気や意向を探りながら、静かに、政策を推進していくのがプロだろう。

プロの政治家が、あんなにしゃべってどうするのだ。アピールのつもりが、その底の浅さを露呈しているだけではないか。マスコミ対応は、各党の広報が、とりまとめて、すればいいことだろう。今一度、このことわざを確認してもらたいものだ。

しかしながら、財布の底も、心の底も、全く他人に見せないことが可能かというと、案外、それが難しいのも事実である。男女関係においては、想いはにじむだろうし、隠せるものではないように、財布の底も、心の底も、その周辺の雰囲気を探れば、自ずと、わかる人にはわかる。

しかしながら、自分から、あまりオープンに、何も考えず、見せてしまうことは、あまりよくないのかもしれない。流風なんて、ブログで、オープンにしているから、阿呆の典型なのだろう。いくら、若い人のためとはいえ、ちょっと洗いざらい記し過ぎかもしれない。

それにしても、財布が古くなり、多すぎる小銭で、底が抜けそうだ。買い換えて、せめて底から抜けないようにしよう(笑)。

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2009年7月17日 (金)

命あっての物種

父がよく死んだら終わりと言っていた。母は、それを「命あっての物種(ものだね)」と表現していた。楽しいことも、苦しいことも、生きている証。それで、わいわいやっていけるのは、命があるから。死ねば、後を誰かが祀ってくれても、生き返るわけではない。

若い時は、無理をし過ぎるものだが、それは後の年代になって、じわりとボディーブローのように応えてくる。20代の無理は、30代に、30代の無理は40代に、そして、40代の無理は、死ぬまで。だから、無理はよくない。

それに若いと、太く短くという発想もしがちだが、後になると、後悔することも多い。そういう人々も多く見てきた。一旦損なった健康を取り戻すのは、なかなか難しい。若い人も、細く長く、という考え方を侮ってはいけない(*注)。

そんなことをすれば、チャンスを逸すると考えがちだが、チャンスは、若ければ、同じチャンスは廻ってこないが、似たようなチャンスは何回もある。その中の一つを得ることができれば、好いと思えば、気持ちも軽くなる。

人生は、一度きりだが、継続的に、少しずつ、力を発揮し続けてくれる方が、企業でも、家庭でも、大変重要な意味を持つ。継続は力なり、とよく言うが、まさにその通りなのだ。そのように評価されることを忘れないでほしい。一時的な能力発揮より、継続的な能力発揮が望まれるのだ。それは、結局、個人の生活さえも豊かにする。

与えられた命を粗末に扱ってはならない。

*注

もちろん、瞬間的に、若い力を必要とする時はある。その時は、頑張ってもらいたいものだ。しかし、瞬発力を発揮した後は、きちんと身体のメンテナンスをしてほしい。そうすることが、長続きを可能にさせる。無理は、重ねてはならない。

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