考え方

2018年10月26日 (金)

青臭いということ

拙ブログに対して、批判的な言葉として、「流風さんは、ええ歳して、いつまでも青臭い」というものがある。まあ、確かに、拙ブログては、そういう議論をしているかもしれない。若い人たちが、青臭い議論をしても、熟年者が、そういう議論をするのは許されないのだろうか。

でも、ある人は次のように語っている。「あいつは、いくつになっても書生っ気で困る、という人もいるが、人間は、書生っ気がなくなったら、もうおしまいだよ」

流風は、今後も、青臭く、書生っ気を発揮して、ブログを記していくつもり。

*追記

「ある人」とは、杉浦重剛。明治・大正時代の国粋主義的教育者かつ思想家。

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2018年10月 7日 (日)

叱責、叱言、注意

昔から、叱られなくなったら人間終わりと言われてきた。叱責、叱言(こごと)、注意を部下、後輩に言うには、それなりの覚悟がいるものだ。言えば、うるさがられるだろうし、今後、気まずい思いをお互いするかもしれない。それでも、本人のためを思って言う。

企業では、うるさ型の上司や小姑型のお局様は煙たがられる存在だが、彼らは、ある意味、貴重な人々。そうそう、他人のことを思って、叱責、叱言、注意をしてくれないものだ。ところが、言われた時は、少しショックで嫌な思いをする。

でも、注意を受けるということは、自分が、まだ見込みがあると思われている証拠。人間の完成は死ぬまで その研鑽に終わりはない。時々、叱責を受けて、逆恨みする人たちがいるが、彼らは進歩の停止の表れであり、二度と注意されなくなったら、最早、終わりだ。

叱責、叱言、注意を受ければ、一旦受け止め、その意味を深く考察し、感謝した方がいい。もちろん、人間は感情の動物。常に自分は正しいと思っている故、かちんとくるかもしれない。しかし、少し時間をおいて、なぜ叱責等を受けたのか冷静に考えてみるとよい。

その時、なぜ自分だけと思わない。自分だけが期待されていると考える。なかなか喜んで叱責、叱言、注意を受けるというわけにはいかないだろうが、そのように努力することも大切だ。

そう考えると、地位を上り詰め、誰からも注意を受けないトップは、ある意味、危ない存在であると自覚が必要だ。利害関係のない外部に叱咤してくれる人を求めることも大切だ。

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2018年10月 4日 (木)

人に任せるということ

色々と聞いて、結局、結論が出ないことが多い。国などの議論を見ていても、あまりにもたくさんの人が集まって議論すると、様々な意見が出て、収拾がつかないことが多い。

確かに、それぞれの主張には、それなりの意味を持っている。だが、優先順序を無視して議論しても、時間の空費に終わる。以前にも取り上げたが、北条早雲の『早雲寺殿二十一箇条』の中に、次の一文がある。

「数多(あまた)まじはりて事なかれといふことあり、何事も人にまかすべき事也」

変な解釈をしている人もいる(それも出版されている)が、解釈を誤るのは、「人」の意味。ここは、単に普通の人を指すのではない。つまり「人物・識見共に優れた人」という意味。普通の人がたくさん集まって議論しても、議論は堂々巡りして結論が出ないことが多い。

もちろん、そういった議論が全て無駄とは言わない。ただ誰も責任を取らない無責任議論は、どこかで打ち切る必要がある。そして、ある段階に達せば、それなりの人物に任せるのがいい、と早雲は言っている。

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2018年10月 1日 (月)

三欠くということ

昔から、長者になるには、「三欠く」が必要だと言われてきた。「三欠く」とは、義理欠く、人情欠く、交際欠くということらしい。世間で、義理、人情、交際が重視されてきたことを真っ向から否定したもの。

すなわち、義理とは、儒教的な意味ではない。「広辞苑」に、「特に江戸時代以後、人が他に対し、交際上のいろいろな関係から、いやでも務めなければならない行為やものごと」の意味。

かつて、義理を欠くことは恥、義理を重んじることは徳目とされてきたが、義理を優先すれば、合理的判断はできない。ズルズルと人間関係に引っ張られ、やるべきことができなくなる。それでは財産は築けないということだ。

次に、人情とは、同じく広辞苑では、「自然に備わる人間の愛情」とある。これ自体は悪くないが、これを重視し過ぎると、我身を滅ぼしかねないということ。現実を冷徹に見通すことが財産形成を傷つけない。

その次の交際は、各種交際は、いろいろと支出を伴う。それは大きいものから小さいものまで、様々だが、最低限度の付き合いに留めないと、支出増加は防げない。他人は、人の財産形成に関心はない。交際を、ほどほどにすることが財産形成に役立つ。

これらは、個人に留まらず、企業経営でも同じことだ。

これらをもじって、別の「三かく」もある。以下に紹介しておこう。原安三郎は、六十歳を過ぎれば、健康法として、「三欠主義」を次のように言っている。

一、一切義理、見栄、面子などで頭や体を労しない。

二、少しでも気にそわぬこと、いやだと思うことはやらない。

三、会合でも、人の依頼でもドンドン断る。

としている。要するに自然体で無理しないこと。

また、別の人は、高齢者の健康を維持する「三かく」として、次のように言っている。

一、汗をかく~運動

二、字を書く~頭を使って手を動かす

三、恥をかく~新しいことに挑戦する

いろんな考えがあるだろうが、案外、参考になるかも。

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2018年9月24日 (月)

前世は昨日

前世なんて言うと、古臭い表現だが、広辞苑には、「現世に生まれ出る前の世」とあり仏教用語との説明がある。ところが、石川理紀之助は、面白いことを言っている。

「前世は昨日にして、現世は今日なり。故に明日は来世というべきなり。昨日習って今日の賢きは、あたかも前世に勉強して現世に賢きが如し」と。

人間とは、若い人たちは特に、まだまだこれからがあると思っていると、時は、アッという間に過ぎ去る。生と死は連続していて、今日があるから明日があるとは分からない。

理紀之助は、そういう意味で言ったのではなかろうが、学び続ける大切さを諭したものだ。その積み重ねが、将来、大きな差になることは明らか。老若男女、持ち時間を大切にしたいものだ。

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2018年9月16日 (日)

『韓非子』の問題点

拙ブログても、『韓非子』の話題は時々、取り上げてきた。彼の思考は緻密で、隙が無い。まさに論破の連続である。だが、彼は嫌われてきたのは、なぜか。

確かに、彼の意見は論理的だ。多くの問題で、いろんなことを喝破している。ところが、人々を説得する場合、それでは不十分。一体、何が足りないのか。

それは彼の理論が左脳的ということのようだ。多くの場合、状況判断は無視されて、こちらに偏りすぎている。よって、政治家の人たちが、韓非子理論をそのまま援用すると、必ず失敗する。あるいは一時的に成功しても、人の心は離れていく。

理屈は分かりやすいが、人間社会は、それだけでは動かない。やはり「情」の部分は無視できない。拙ブログで、度々記してきたように、情理バランスが大切である。特に、若い方は、『韓非子』の読み方には注意が必要である。

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2018年9月 3日 (月)

相手に関心がありすぎると、、、

ネットで、芸能人の発言の揚げ足取りコメントが目立つ。何気なく発言したことを捉え、ああだこうだと批判する人たちがいる。それを修正しても、ねちねちと攻撃する輩がいる。

もちろん、それが正論のこともある。ただ、物事には、多くの見方があり、自身の意見が正しいとは限らない。

それより悪いのは、どうでもいいことを、あれこれ捉えて、攻撃する人たちだ。彼らのライバル芸能人の手先なのだろうか。あんたたち、暇なんだねえ。それとも、対象に関心がありすぎるのかな。

他人の振り見て我が振り直せ、とはよく言うけれど、アラが見えるのなら、まず自分を見つめてみよと言いたい。流風も、あまり偉そうなこと言えないけれど(笑)。

*追記

情報機器の普及で、各人がいろいろ意見を述べられることは、好ましいことだが、個人の見解については、思慮深く、意見を言う必要がある。個人名を出しての批判は慎重になった方がいいかもしれない。

ただ、有名人である政治家、芸能人等は、その行動、発言は、より慎重になる必要がある。彼らの発信には、多くの人が見聞きしているという認識が大切だ。

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2018年9月 2日 (日)

『宗竺居士家訓』を読む その十二 同族の戒め

今回は、『宗竺居士家訓』を読むの第十二項で、同族の戒めについて述べている。一応、今回で最終とします。

現代語解釈は流風。

十二、「同族であっても、甘えを捨て、お互い自ら戒め慎み、誤りなきように事を進めるように努力せよ。そうして、もし敢えて道に外れることをやる者がいれば、同族は協議して、厳重に処分せよ」

原文(仮名遣いは一部修正)

十二、「同族は互いに相戒飭(かいちょく。いましめること)して、過誤なからん事を努むべし。而して若し不義の行為を敢えてする者生ぜば、同族協議して、その処分を講ぜよ」

同族一体あれば、組織間のルールは、より厳しく運用していく必要がある。以前にも記したように組織は蟻の一穴で滅ぶこともある。相互に厳しくチェックして、誤りなきようにする。

*追記

第十三項もあるが、現代民主主義社会とは、考え方がずれているので、ここでは取り上げない。

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2018年9月 1日 (土)

『宗竺居士家訓』を読む その十一 決断力

今回は、『宗竺居士家訓』を読むの第十一項で、決断力について述べている。

現代語解釈は流風。

十一、「決断力は、あらゆる場合に求められるが、商売に於いても、特に必要となる。例えば、事業を見切って一時の損失を出しても、赤字の垂れ流しを放置して後日、多大の損失を出すより、いいことは明らか」。

原文(仮名遣いは一部修正)

十一、「決断力は万事に必要なるも、商売に於いて特に然りとす、仮令(たとえ)一時の損失を忍んで見切るとも、後日に至って、より大なる損耗を醸すに優る」

商売に於いては、いろんな場面で決断力が求められる。進むべきか、退くべきか。特に退く決断は勇気がいる。それなりの覚悟もいる。日頃から判断基準を明確にしておくことが決断を遅らせない。

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2018年8月31日 (金)

『宗竺居士家訓』を読む その十 新人の人材育成

今回は、『宗竺居士家訓』を読むの第十項で、新人の人材育成について述べている。

現代語解釈は流風。

十、「人は、その道に通じなければ、他者を率いる人材にはならない。そこで、預かった子弟を基礎となる事務を徹底的に習得させる。そのようにして、ようやく、その根本を十分に理解した時、実地訓練として、支店に代理勤務をさせてみる」

原文(仮名遣いは一部修正)

十、「己れ、其の道に通ぜざれば、他を率いる能わず。宜しく子弟をして小僧の執るべき事務を習熟せしめ、漸を追うて其の奧に達する時は、支店に代勤して実地に当たらしむべし」

人材育成の基礎は、新人教育において、基礎の基礎を徹底的に仕込むことが大切と説く。現代で言えば、大卒は、企業で働く基礎ができていないのに、プライドだけ高い場合が散見される。

しかしながら、まず新入社員には、まず企業の「丁稚」レベルの接客・作業の仕事をまず習得させる。そして全体の仕事の流れの内容を完全把握させる必要がある。その上で一般事務(業務・会計)の内容・意味を十分理解させる必要がある。それをしないで、中途半端に、いきなり営業・現場の一線に出すと、本人も苦しむし、会社にも迷惑を掛けることになる。

この家訓は、人材育成について、慎重な姿勢を促したと捉えられる。

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