男と女

2017年7月13日 (木)

女は怖い!?

ある芸能人夫婦がマスコミを巻き込んで大騒ぎしている。特に騒いでいるのは妻の方だ。ネットに、(錯覚の部分も含めて)夫婦だけしか知りえないことを暴露して、いかにも自分は正しいのだと強弁している。夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、どういうわけか、マスコミは、それに便乗している。

昔、「女は怖い」としみじみ語った先輩がいたが、確かに、女性には、多かれ少なかれ、そういう面がある。大体、個人差はあるものの、嫉妬は多くの女性には見られる。先輩は、「女は人間と思ったらあかん。動物やと思えばいい」と断言していたが、あながち遠いことではないかもしれない(笑)。

昔から、どんな賢い女性でも、嫉妬だけは避けられなかった。今回は、妻側の強い思い込みが招いた騒動のようだが、一般の女性でも、ありうることだろう。男は、相手を好きになる時、思い込みが強くなるが、女性は、結婚してからの夫への思い込みが強くなるようだ。

夫側にすれば、男の本質は何も変わっていないのだが、妻からすると結婚すれば、夫は、完全に妻のコントロール下にあると錯覚するようだ。でも、男は男。夫婦は、所詮、他人。相手に対する思い込みで期待値を大きくすることは、不幸を招きやすい。この騒動は、多くのカップルの教訓になるかもししれない。

*追記

この騒いでいる女性は、言葉が多過ぎる。目立つことを好しとしているのだろう。しかしながら、ギリシャの古語に次のようなものがある。

「沈黙は、女にとって飾りとなる」と。

別の女優さんは、檀那に浮気されても、こんなに騒ぎ立てていないですよね。その方が賢く振る舞っているように見える。闘病中の浮気で恨んでいるのは確かで、離婚はするかもしれないが。こちらも、男にとって怖いことは間違いなし。

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2017年6月22日 (木)

招かざる花

今の時期になると、ドクダミの繁殖が目立つ。一旦、繁殖すると、それを駆除するのはなかなか難しい。ドクダミ茶として活用する人もいるが、今のところ、そのようにする予定はないので、雑草扱いだ。結局、他の草花を植えたりして、ドクダミの繁殖範囲を狭めるしかない。

同様に、繁殖力の強い花がある。それがユリ。自然分球して増えるが、花の後の種子からも増える。そして、予期せざるところに根をつけることになる。これはガーデニングする方としては目障りな存在だ。気づいた時には、結構、根を張っており、完全に取り除くことが難しい。

父も嫌った花だが、花自体は美しくても、多少厄介な存在だ。世の中には、そういう女性もいるなあと思いながら、予定外の場所に生えたユリを除去していく。招かざる花ということになる。

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2017年5月19日 (金)

久しぶりに、お節介を受ける

若い頃は、スーパーに行くと、よく、お節介を受けた。食品売り場で、少し立ち止まると、必ず(笑)。特に大阪時代は多かった。どちらかというと、住居費の安い下町に住んだことも影響しているのだろう。

売り場にいると、ほんの一瞬立ち止まったのを見逃さず、お節介してくる。あの商品は、値段の割に美味しくないとか、魚の見分け方、野菜の見分け方、調理の仕方等、本当にいろいろ。話しかけてきたのは、ほとんど、おばちゃん。年齢的には、中年から、お婆さんまでいろいろ。

そのことを知人に話すと、「お前には、それだけ隙があるか、話しかけやすいか、どっちかやろな」と言われた。そういうと、若い頃、高齢者に、よく道を尋ねられた記憶がある。ちょっと安心感があるのかな。

それはともかく、長い間、お節介は受けていなかった。ところが、最近、スーパーの売り場で、果物を物色して買い物していると、中高年のおばさまより、「そっちよりこっちの方が美味しい。こちらにしい」と言われて、まさにかごに入れていたものを戻して、入れ直した次第。

よくわからないので、どちらでもよかったのだが、有無を言わせぬ言い方。逆らえなかった(笑)。売り場で、お節介している女性は、時々見かけるが、直接、お節介を受けたのは本当に久しぶり。喜んでいいのか。頼りなく見えたのか。

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2017年5月15日 (月)

男女の思いのズレ~映画『凱旋門』から

凡そ、男女の恋愛関係には、その思いにズレが生じるのは致し方ない。ただ、そこから悲劇が生じる。今回は、久しぶりに、洋画を鑑賞した。それが『凱旋門』(原題はArch of Triumph)。1948年制作のアメリカ映画。主演は、イングリッド・バーグマン、シャルル・ボワイエ。あらすじを備忘録として残す。

舞台は凱旋門のあるパリ。時代は、第二次大戦前の不穏な雰囲気漂う時期。当時、パリには、いろんな国からの亡命者で溢れていた。

オーストリア医師のラヴィック(シャルル・ボワイエ)も、亡命者の一人。ナチを逃れて、不法入国していた。当然、旅券もない。生きるため、闇のアルバイト医師をしていた。その彼が、ある夜、ナチの収容所で、彼の恋人を拷問にかけ殺したゲシュタポの手先ハーケを見つける。

復讐心に燃えたラヴィックは、その場は見失う。その帰途、セーヌ河で身投げしようとしているイタリア女ジョーン・マドゥ(イングリッド・バーグマン)を見つけ、止めさせる。彼女は行くところがないということで、とりあえず、亡命者が宿としているところに泊めてやり、何かと世話を焼き、ホテルの手配もする。

そんなこんなで、彼女は彼のことが忘れられず、逢瀬を重ねるうち、二人の関係は深まる。彼女は、売れない俳優で歌手であったところから、彼は知り合いのモロゾフを通じて、カフェの歌手の仕事を紹介する。

そういうこともあり、二人は、リヴィエラで暮らすことになるのだが、幸せは続かなかった。ラヴィックの不法入国がばれて、即刻スイスに追放される。3か月後、彼はパリに戻ってくるのだが、彼女は消えていた。というのは、孤独に耐えかねて、青年富豪のアレックスと同棲してしまっていたのだった。

ラヴィックが探し求めた結果、ジョーンは戻ろうとするが、嫉妬に狂ったアレックスは彼女を刺してしまう。その頃、ラヴィックは、ハーケを見つけ、罠に嵌めて殺害し、復讐を成し遂げていた。その夜には、ニュースで、連合国の対独開戦を伝えていた。

疲れて、うとうとしているところに、ジョーンから電話が鳴り響き、殺されると言う。彼が駆けつけると、アレックスは、おろおろして助けをラヴィックに求め、救急処置もし、医療施設の手配もする。手術は専門医師の到着を待つべきであったが、ラヴィックは、最早、時間がないと、自らやるが成功はしなかった。結果的に彼女は亡くなる。

その後、ラヴィックも敵国人として、収容所に引っ張られていく。最後に、パリ市民の象徴である凱旋門が夜の闇に浮かんでいたというような内容。果たして、彼の手術の失敗は不可避だったのか、あるいは故意か。恋人を永遠に手元に留めるには、その方法しかなかったのか。いずれにせよ、ジョーンが死地に陥って、初めて、思いが一致したのは皮肉なことであろう。

若い人たちがご覧になると、単なるメロドラマにしか映らないかもしれない。2時間12分の映画としては、疲れを催すという批判もないではない。まあ、これは、ある程度の年齢にならないと理解は難しいかもしれない。

ただ、戦争の場面こそないが、戦争映画でもある。戦争で被害に遭うのは、いつも一般国民であることは確か。見方を変えれば、それなりに意味のある映画だと思う。

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2016年12月13日 (火)

世話を焼く人~漢詩『蜂媒』

蜂は、花と花の間を飛び回り、そのお蔭で、あらゆる作物ができる。その代り、蜂は、花から蜜を得ている。そういうことを詩にしたものに、漢詩『蜂媒(ほうばい)』がある。作者は、劉後村。これは号で、南宋の文学者、詩人で、劉克荘のこと。若い時、筆禍を起こすが、後許され、復帰している。引退後は農村に住み、長生きした(82歳で没)。詩の内容は次のようになっている。

蜜口 香を伝えて好信通ず

花の為に評品して東風に嫁せしむ

香鬚 花英を粘し得て去る

疑ふらくは是れ纏頭利市の紅かと

「蜂は、花と花の間を飛び回って、それぞれの花を品定めして、一つの花の香りをもう一つの花に伝える。そして、めでたく結ばれて実を成す。蜂の方はというと、花から蜜を得て、満足、満足となる」という感じかな。

裏の解釈は、男と女を世話をする仲人のことを揶揄している。意訳すると、「仲人という人種は、あちこちの若い女性を品定めして、男に甘い言葉で、あなたに好い報せで良い人よと伝えて結婚させる。仲人は、男と女をくっつけて、祝儀や謝礼として巻物をもらったようだ」ぐらいかな。

最近は、こういう世話焼きおばちゃんの数が減ってしまった。家という意識が無くなり、跡継ぎを強く意識しなくなったからかもしれない。でも少子化の今、婚姻率を高めるには、ある意味、仲人は必要悪でもある。お見合いは、相手の素性が事前に分かるので、リスクは小さいのだけれど、若い人たちは恋愛に憧れる。でも、ある程度の年齢になったら、夢を見るのもやめた方が宜しい。仲人に依頼するのも一つの手段と割り切ればいい。

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2016年12月 7日 (水)

所詮、無理な覚悟~シェイクスピアの『恋の骨折り損』

人間、できない約束や覚悟というものは、すぐに破られる。もちろん、真の覚悟があれば、ある程度可能かもしれない。しかしながら、男女の恋愛は止める約束はできない。それが人間の自然な性なのだから仕方ない。

どこの国でも、男女は、その程度は違っても、関心のある異性には、注目してもらうようにする。シェイクスピアの『恋の骨折り損』(Love's Labour's Lost 松岡和子訳)では、四組の男女が登場し、ラブレターや贈り物を通じて、恋の駆け引きが始まるのだが、女性の方が、いずれも男より上手。

ただ、この本は、英語、ラテン語の意味が分からないと本来の面白さは一般読者には理解しづらい(韻を踏んいると言われても、よくわからない)が、それは訳者の解説で、ある程度、補っている。

日本でいえば、「ダジャレ」のオンパレード。それが連なっていく言葉のやり取り。ある意味、登場人物の頭の回転がいいからできること。一種掛け合い漫才の雰囲気有り。ても、いくつかの教訓も。一部を紹介すると次の通り。

「どうせ守れやしない。女性に会うな、勉強しろ、断食しろ、眠るな、なんて」

「美点の輝きを曇らせる唯一のしみは、(中略)鋭敏なウィットと鈍感な神経が組み合わさっていること、ウィットの刃で人を切り、無神経さを発揮して、近寄ってくる人はやり玉に上げる」

「女の助けがなければ、どんな男が何をやっても優秀にはなれない」

「明るい心は長生きのもと」

「あなたが優しすぎるからいけないのです」

「私たちは、恋満載のお手紙も、恋の使者である贈り物を受け取りました。(中略)そんなものは単なる儀礼、楽しい冗談、挨拶代わりとみなすことにしたのです。いわば時間の隙間を埋める詰め物、暇つぶしですね」

等々。それにしても、言葉の多い賑やかなカップルだ。最終的には、主人公の女性が、家族の不幸に遭って、現実に目覚め、男女の掛け合いは一旦終わり、恋の駆け引きの結論は1年延ばしされている。

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2016年11月20日 (日)

顔の好みは変えられる?

昔から、「蓼食う虫も好き好き」というように、第三者から見て異性の好みは様々だ。美女と野獣の組み合わせもあれば、美男にブスの組み合わせもある。美男美女の組み合わせは極めて少ない。

それは、若いときは、どうしても顔に関心が行きがちだが、いずれ、相手の性格や心映えが大切と気づく結果かもしれない。それに相性が絡む。その結果、いろんなパターンの男女の組み合わせができるのだろう。

ところで、異性の顔の好みは、どのようにして形成されるのだろうか。ある研究によると、人の顔の好みは、脳の帯状皮質という領域の活動と密接な関連があるらしい(*注)。そのことに注目して、帯状皮質の活動状態を即時に把握し、自分で制御できる装置を開発したらしい。

具体的には、実験参加者12名に、実験の目的を知らせず、あらかじめ選んでおいた、好きでも嫌いでもない中くらいの好みの顔を見せた後、帯状皮質が「顔が好き」という活動パターンになるように自分で誘導する訓練を三日間行った結果、訓練後に同じ写真を見ると、好感度が平均5%上がったという。また逆パターンの「嫌い」をすると、好感度は平均5%低下したらしい。

要するに、コンピューター画面を見ながら、自分で制御する訓練によって、顔の好みを変えることができるらしい。ただ、このような装置が完璧なものかは、少し疑問がある。結果は、洗脳とまでは言わないが、一時的な催眠暗示効果のようにも思われる。このような効果は、時間の経過と共に冷めてしまうような気もする。

研究自体は、面白そうだが、錯覚による泣き笑いはあるにしても、まだまだ各人の直感力を大切にしたいものだ。

*注

京都にある国際電気通信基礎技術研究所などのチームによる研究。

*追記

ついでに記せば、上記の研究とはテーマは異なるが、好きな顔、嫌いな顔というのは、遺伝子に組み込まれているような気がする。そういう研究もしてほしいものだ。

そして、本当は双方共に好きだというペアが少ないのはなぜか。多くは、片方は好きだが、もう一方は、それほどでもという場合でも、ペアになっている。それを理解するには上記の研究が活きてくるかも。

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2016年11月11日 (金)

シェイクスピアの『尺には尺を』を読む

かつてシェイクスピアの作品は四大悲劇をはじめ、喜劇等も読んだが、最近になって、あまり知らない作品をよく読んでいる。今回は、『尺には尺を』(松岡和子訳。ちくま文庫刊)というもの。『尺には尺を』というのは新約聖書にある「目には目を、歯には歯を」というのを逆説的に捉えたものらしい。

話は四組の男女が出てきて、微妙に絡む。公爵(ウィーンの君主)とイザベラ、アンジェロとマリアナ、クローディオとジュリエット、ルーチオとケート・キープダウン。一つ一つ、カップルの関係を示すと次のようになる。

公爵はウィーンの君主で、ちょっとした策士。圧政のそしりから逃れるため、貴族のアンジェロを試すためとして公爵の代理を務めさせ、雲隠れする。イザベラは、クローディオの妹で修道女見習いだが、戒律の教えの寡黙を守るどころか、しゃしゃり出て、べらべら話すタイプ。最終的に、公爵は美人のイザベラが修道女見習いであること無視して、寡黙でもなく従順でもない現代的な彼女を得るため策を弄する。

アンジェロは潔癖症だが、やがて偽善者の本性を現す。マリアナは彼の婚約者だったが、持参金不足とアンジェロの誤解から婚約解消される。マリアナは彼のことを忘れられない。アンジェロが公爵の代理を命じられていた時、兄を救おうとする美人のイザベラに対して、現代でいうパワハラ、セクハラで迫る。最終的に公爵の入れ知恵とは知らず、彼女の甘い誘いの罠に乗ってしまう(実際は、知らずにイザベラでなく、マリアナを抱く)。そのことがばれて、死刑の危機に陥るが、マリアナの懇請を受け、助かる。

イザベラの兄のクローディオは若い紳士だが、結婚前に恋人のジュリエットを妊娠させてしまい、罪に問われる。クローディオが迫ったためか、ジュリエットが迫ったためか。あるいは合意の上か。アンジェロからクローディオに対して容赦なく罪を問われ断罪を命じられる。

ルーチオは、クローディオの友人で変わり者。娼婦のケート・キープダウンを妊娠させてしまうが、言い訳して逃げようとする。それでも、ケート・キープダウンは子供を産む。果たして、どちらが悪いのか。

最終的には、四組のカップルは結婚させられるか、結婚することで終わっている(あるいは匂わせている)。人というものは、自分の尺にあった異性を選ぶとシェイクスピアは言いたかったということだろうか。ということで、これは一応喜劇なそうである。

*追記

解説によると、シェイクスピアの場合、最終が結婚で終わる場合は喜劇で、結婚で始まるのが悲劇だそうである。シェイクスピアからすると、彼らの結婚も不幸の始まりなのだが、不幸の度合いも「尺には尺を」ということなのだろう。

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2016年10月24日 (月)

晩年の良寛の恋

元知事と元女優の老いらくの恋が話題になっているが、元気な余生と言えよう。超高齢社会では、高齢者も様々だが、恋愛も珍しくない現象かもしれない。ただ、元気であっても、晩節を汚さないようにしてほしいものだ。

さて、孤独感が強く、浮いた話など、あまり聞かない良寛だが、晩年、恋に近いことがあったようだ。彼の場合は、プラトニック・ラブに近いかもしれない。相手は、貞心尼という女性。医師の夫と23歳ごろ死別して、その後、出家している。

彼女は、美人の誉れ高く、歌文にも秀でていた。その彼女が30歳ごろ、春に良寛を訪ねた。そして、次の歌を呈して、良寛の法弟になることを願い出る。詞書には、「師常に手まりをもて遊び給ふとききて奉るとて」とある。

 これぞこの 仏の道に 遊びつつ

   つきや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ

当時、良寛は70歳くらいで、籠っていて留守にしていた。秋に、この歌を見て返す。それが次の歌。基本的に、この時点では、本人に直接会っていないので、真面目に返している。

 つきてみよ 一二三四五六七八 九の十

   十とをさめて またはじまるを

手まりをつくように、仏の修行も繰り返すことが大切と詠んでいるようだ。その後、良寛との交流は74歳で亡くなるまでだ。よって4年弱の間の交流ということになる。良寛は、貞心尼が、訪ねてくることを、ことのほか喜び、それを歌にして残している。

 君や忘る 道やかくるる このごろは

   待てど暮らせど 音ずれのなき

やはり貞心尼が美人だったことが影響しているのだろうか。あるいは詩文を高く評価したからであろうか。首を長くして、彼女の来訪を持っている気持ちを表している。待つ身は辛いものだ。

貞心尼は良寛と違い、結構忙しく、そんなに頻繁に訪れることはできないことを考慮しない歌(笑)。それでも、晩年の一休のような恋とは異なり、貞心尼の美しさに惹かれながらも、精神的な心の交流を楽しんだようだ。

*追記

貞心尼は、良寛の没後、良寛とのやり取りをまとめ、『はちすの露』という本にまとめた。

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2016年9月30日 (金)

女の五つの罪~『梁塵秘抄』より

『梁塵秘抄』に、次のような文言がある。

 女人五つの障りあり。

 無垢の浄土は疎けれど

 蓮華し濁りに開くれば

 龍女も仏になりにけり

不勉強で申し訳ないが、女性には五つの罪(五障)があると、仏教にあるらしい。五障があるため、梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏心になれないとするようだ。

調べてみると、五障とは、楽欲障、瞋恚障、睡眠障、悪作障、疑惑障らしい。別の項では、「五善根」の「信、精進、念、定、慧」の障害になる「欺、怠、瞋、恨、怨」のことらしい。なんとなく分かる気がするけれど、ここでは、これ以上の説明を加えない。

上記の『梁塵秘抄』の文言の「龍女」とは、嫉妬心や猜疑心の強い女性で、結婚を嫌い独身者で満足する人を指している。ただし、龍女も、正しい信仰と陰徳を積むことで、普通の女性になることができ、結婚生活もできるとする。

『梁塵秘抄』は、後白河院が、民間の歌謡を集めたものだが、宗教的な教えが、当時の歌謡に既に取り入れられていたことを示すものだろう。ただ、現代人にも、多少参考になるかもしれない。

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