男と女

2018年7月 3日 (火)

赤染衛門と大江匡衡 その四(完)

実は、このやりとりの前に、二人の間では、いろいろあった。というのは、赤染衛門が、夫の匡衡に滅多に逢わず、冷たい仕打ちをするので、彼は、浮気心を発揮する。まあ、当時としては当たり前。

浮気相手は、稲荷神社の神主の娘。彼女を愛人として通っていた。だが、本当は、それほどには気に入らず、愛情は沸かない。それにもかかわらず、結構長く、留まっていた。そこへ衛門から、次の歌が送られてくる。

我が宿は、松にしるしも なかりけり

 杉むらならば たずねきなまし

これも独断で解釈。「松」と「待つ」。「杉」と「過ぎ」。そして、「杉」は稲荷神社の杉。「我が家の松は、見つけにくいので、いらっしゃらないのですね。杉むらだったら、迷わず訪ね来られるのだろうに」という感じの猛烈な皮肉。

裏を返せば、早く帰って来なさいよ、ということ。衛門も、やっと匡衡を夫として認めた。よく言われるように、焼もちや嫉妬は愛情の裏返し。それに気づいた彼は、愛人のもとを離れて、急いで衛門のもとに帰り、元の鞘に収まった。このことで。二人はやっと理解しある仲になったようだ。まあ、結婚生活はいろいろある。

その後は、彼も、尾張守になったりして、経済的にも安定し、子どもにも恵まれ、赤染衛門は幸せ者よと言われる。その仲のよさを示す歌が、次のもの。

匡衡が、妻と共に、尾張に下向した時、独り言を言う。

とうかのくにに いたりてしがな

これを下の句として、衛門が、上の句を付け足す。

宮こいでて けふここぬかに なりにけり

通しで解釈すると、「都を出てから今日で、九日になりました。十日には、尾張国に着きたいものだ」と別に、どおってことない内容だが、こういうやりとりができるのは関係が正常なこと。このように、おしどり夫婦になる道程は長い。

*注記

赤染衛門は、現代に言う教育ママ、ステージママであったようで、子どもの出世にまで口出ししている。親心は分かるが、ちょっとやりすぎの感じ。そのことは、ここで取り上げるのは止めた。

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2018年7月 2日 (月)

赤染衛門と大江匡衡 その三

大江匡衡は、妻に対して、募る思いを伝えていく。これはおかしいと思う人もいるだろうが、大体、見合い結婚すれば、結婚してから、相手を知って恋愛が始まることも多い。彼は道長に同行して、住吉大社にお参りした時、衛門に歌を送る。それが次のもの。

こひしきに 難波の事も おほ゛ほえず

 たれすみよしの まつといひけん

いろんな解釈が先生方によってなされているが、今一つピンと来ない。そこで、独断で解釈(間違っているかもしれないので、学生諸氏は無視して(笑))。

「あなたへの恋しい思いが強すぎて、難波に来て何をやっても、上の空。一体、住吉に誰が待ってくれているというのだ」と。赤染衛門のいないところに来ても、少しも嬉しくないという気持ちかな。

衛門の反歌が次のもの。

なをきくに ながゐしぬべき すみよしの

まつとはまさる 人やいひけむ

ところが、赤染衛門は、これを正直に受け取らず、皮肉を込めて返している。これも独断で解釈。「住吉という名を聞くと、居心地がよさそうで、長居しそうですね。私に優る、あの人が、そう、おっしゃいましたか」と。

裏解釈としては、「私のことは、もう、いいんですね。それなら、あなたを待つ気持ちはありません」という感じ。焼きもちと軽い嫉妬心と反発。この時期には、赤染衛門も、匡衡に傾いているとも見える。女心は時と共に変わる。男女の心のずれは複雑ですなあ(笑)。

次回に続く。

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2018年7月 1日 (日)

赤染衛門と大江匡衡 その二

実は、どうも赤染衛門が、大江匡衡と結婚したのは、歌の交流があって、好意を抱いていた男から突然、連絡を絶たれたことも影響しているのかもしれない。現代でも、ありそうな話。

ところが、古書(*注)に「赤染衛門といふうたよみは、(中略)、心ならず、まさひらをおとこにして、いとわかきはかせにありけるを、ことにふれて、のかひいといひ、あはじとしけれど、おとこはあやにくに、心ざしふかく成りゆく」とある。

つまり、大江匡衡のことは、はっきり言って、好きでなかった。大江匡衡は若い少壮学者とは言え、背はひょろりと高く、風采は上がらず、肩は出ていた(いかり肩)上、なりが少し変で、その歩き方も見苦しく、女性には人気がなかった。

それに、まだ大した功績もなく、官位も進まない。当時、衛門は、既に一流の歌人。わが身と比べてと考えると、彼女が敬遠したくなるのも分かる。以前、付き合っていた男の影響を惹きずっているとも考えられる。

ところが、その意に反して、結婚せざるを得なくなった。これは親の意向とも考えられるが、彼女は、当時、藤原道長に仕えていた。道長は、匡衡の能力を認めていた。多分、彼の強い勧めで、親の赤染時用を巻き込み、止む無く結婚したのではなかろうか。

彼女が結婚したのは、推定20歳から22歳。大江匡衡は24歳から26歳。当時としては、そんなに若くないとしても、選り好みしたい年代。それで、覚悟のできていない赤染衛門は、結婚したのに、匡衡を嫌って、何かと理由をつけて、遠ざける。ところが、ところが、男の方は、逆に、愛情が深くなっていく。何という皮肉。

*注

『古本説話集』等。

次回に続く。

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2018年6月30日 (土)

赤染衛門と大江国衡 その一

やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて

 かたぶくまでの 月を見しかな

   (百人一首 59番 赤染衛門)

この歌は、赤染衛門の姉妹(どちらか不明)に通う中関白藤原道隆が訪ねると言って、約束を違えたので、彼女が代詠したもの。「(おいでにならないことを知っていたら)ためらわずに、寝てしまったでしょうに。ついに月が西の山に傾くまで月を見てしまいましたよ」という感じ。

赤染衛門(あかぞめえもん。推定956年~1041年)は、平安中期の女流歌人。その出生は少し複雑で、母親の前夫の平兼盛と婚姻中に、身籠ったとされ、再嫁した赤染時用(ときもち)の赤染家で出産されたと言われる。こういうのは現代でもある。まあ、それはともかく、親権は、裁判で、赤染家になっている。

その彼女が、大江匡衡と結婚する。その大江匡衡(まさひら。952~1012)も歌人だが、本職は儒者。大江重光の子。大江家は、菅原道真の失脚後、儒家の中心的存在になった。そういう環境で育った。いわゆる学者一門の一人。

当時隆盛の藤原家と交流があり、願い文や奏上分などを代作している。文章博士・東学学士・式部大輔。学者としては一流であった。それゆえ道長の信望も厚かった。そういうところから、年号の勧進などもしている。また、単なる頭でっかちの学者ではなく、晩年、尾張に三度、叙せられたが、守地方官としても有能で善政をしたと言われる。

一般に、この二人はおしどり夫婦と呼ばれている。ところが、結婚当初は、必ずしも、そうでもなかったらしい。

次回に続く。

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2018年6月26日 (火)

相如と文君の恋 補説

いろいろ噂話はあるものの、相如と文君は、鴛鴦夫婦であったことは確かだろう。その要因はいくつかある。個人的な感想を記しておこう。

一、まず卓文君の、ひとめ惚れであったこと。惚れた弱みとは、よく言うけれど、世間一般とは逆のケース。

二、相如が能力が豊かで、魅力的な人柄であったこと。これは彼が苦難に陥った時、友人たちが、手を差し伸べていることからも明らか。そして、彼らの申し出に素直であった。

三、文君は17歳て寡婦になっており、引け目があったこと。

四、卓家は富豪であったが、家格は、相如の方が高かったこと。

五、相如の方も、官職の「郎」を買った時は実家は裕福であったが、後に逼塞したこと。

六、はじめて恋愛関係になった時、相如は35歳、文君は17歳と年齢差があったこと。

七、文君は確かに美人であったが、後に「史上、最も愛に忠実だった」と称えられるように、夫に誠実であったこと。親に見放されても、ホステスをやるなど覚悟があった。

等々が考えられる。

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2018年6月25日 (月)

相如と文君の恋 その三

中国では、卓文君の評判はいいらしい。何しろ、お嬢様だったのに、苦しい生活の中、夫を支え、立派に出世させたから。その理由については、これから記そう。

ただ、成都の相如の自宅は、非常に惨めなものであった。文君も、ここでは何もできないと悟り、再度、夫に臨邛に戻ることを促し、戻ってからは、ありとあらゆるものを売って、そのお金で、一件の呑み屋を買い取る。

そこで、文君は、ホステスになり、接客する。相如といえば、褌一つで、下働きをし、夜は繁華街でアルバイトをする。そういう噂は、卓王孫の耳にも入る。これには、彼も恥じ入る。そして、ついに周囲の人たちの説得に応じて、多額の財産分与を決心。

それによって、彼らは、再び成都に行き、田畑や邸宅を買って、優雅な生活を送った。その後、武帝の時代になって、彼は文学を好んだ。そこで相如が以前創作した辞賦「子虚の賦」を読んで大いに感動し、お気に入りとなる。

武帝は、作者のことは知らなかったし、昔の人の作品だと思っていた。ところが、相如と同郷の者が、今の時代の者で、作者は司馬相如であると伝えると、早速、召し出される。そして、「子虚の賦」を天子に相応しいものに改作したとのこと。

その後も、相如は、文武ともに活躍する。ただ、「武」と言っても、どちらかというと外交力。どこでも、彼自身人気があったようで、それを利用しつつ、地域をまとめ上げる。もちろん、文君の内助の功が大きかったのは言うまでもない。

*追記

ただ、相如が晩年、側室を置きたいと言った時は、文君は、それに対して、「その時は別れます」と、はっきりと言っているという。彼女の漢詩『白頭吟』というものは残っていて、夫の浮気心をなじっている。

しかしながら、これは後世の創作で、史実ではないともいう。でも、妻の援けを受けて出世しても、それを忘れ、糟糠の妻の存在を疎ましく思うのは、男の常。可能性がないこともない。まあ、昔のこと故、事実は闇の中。

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2018年6月24日 (日)

相如と文君の恋 その二

宴が終わってから、卓文君を恋い慕うラブレターの「琴歌(きんか)」を贈る。内容は次の通り(文献により、多少、読み下しが異なる)。

 その一 鳳(ほう)や鳳や

鳳や鳳や 故郷に帰る

四海に遨(ごう)遊して其の凰を求む

時に未だ通遇せず 将(たす)くる所なし

何ぞ悟らん今夕 其の堂に升(のぼ)れば

艶なる淑女ありて 此の房に在らんとは

室は邇(ちか)く人遐(とお)く 我が腸を毒す

何に縁(よ)りて 頸(くび)を交えて鴛鴦(えんおう)とならん

 その二 凰(おう)や凰や

凰や凰や 我に従って棲み

孳尾(じび)を託して 永く妃と為すを得

情を交え 体を通じ、心を和諧せん

中夜相い従うも 知る者は誰ぞ

双び与(お)き 倶(とも)に起(た)ちて 翻って高く飛ばん

我が心に感ずる無くば 予をして悲しましむ

「その一」は解釈は不要であろう。「その二」も不要であろうが、かなり直接的でエロいプロポーズ。枕を重ねた時の情交の風景を夢想している感じ。彼女が寡婦であることを意識したものになっている。処女であれば、こういう内容にしなかっただろう。

この手紙を受け取った卓文君の反応は早い。早速、相如のもとに出かけ、駆け落ちして、成都に向かう。ただ生活は苦しく、文君は父親に泣きついて援助を求めたが、激怒した卓王孫は、にべもなく断り、決して援助しようとはしなかった。

次回に続く。

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2018年6月23日 (土)

相如と文君の恋 その一

「女の助けがなければ、どんな男が何をやっても優秀にはなれない」(シェイクスピア『恋の骨折り損』より)。さて、司馬相如と卓文君の場合は、どうであったのか。『史記』に取り上げられ、よく知られた話だが、改めて記す。

ちなみに、卓文君は、現代中国でも、夫を出世させた女性として人気があるそうだ。その夫の司馬相如は前漢の人。文章家である。中国の成都の割と裕福な家に生まれた。若い頃、読書と剣術を好んだという。「相如」というのは、本名ではなく、戦国時代の趙の将軍・藺相如に憧れて、改めたという。

金持ち故、官職を買って、「郎」(君主の侍従)になり、景帝に仕えた。ところが、景帝は、文学には全く関心がなかった。それゆえ、相如は仕事が面白くない。そこへ、たまたま景帝の弟の梁の孝王が景帝のもとを訪ねてきた。

彼は、一流の当時の文化人を引き連れていた。そこで、相如は、孝王の客分になろうと決心。病を理由に(仮病だが)、職を辞して、景帝のもとを去り、孝王のもとに行き歓迎される。支援を受けて、住み活動することに。その時の代表作が、「子虚の賦」である。

ところが、彼が35歳の頃、孝王が亡くなる。止む無く、成都に帰ることに。だが、実家は、逼塞しており、生活できない状態。この状態を知った親友の王吉は、当時、臨邛(りんきょう)県の県令であったことから、当地に誘う。

相如は、それに従い、赴く。そこで、王吉は、相如がなんとかやっていけるように一芝居打つ。それが、大富豪である卓王孫の家での宴会に、相如を連れていき、彼を持ち上げることであった。

まず、相如の琴の才能を知っていたので、琴を披露することを勧める。あまりにも見事なので、出席者は、皆は魅了される。そして、そこに、17歳で、夫を病で失い寡婦になっていた卓文が実家に戻っていた。

彼女も、相如の琴に魅せられ、ひとめぼれしてしまう。彼女が隙間から、ちらちらと、こちらを見ているのは相如も察していた。なぜなら、それほど美人であったから。卓文君は、早速、熱烈なラブレターを送る。

次回に続く

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2018年6月 5日 (火)

1/3亭主

ある新聞の投稿欄に、最近、亭主を喪った高齢の女性の話があった。彼女は、夫の生前中、よく「1/3妻」と言われたそうだ。というのは、彼女の夫は、こまめ。それに対して、彼女は、おおざっぱ。このような性格の夫は、どうしても妻のアラが見える。

それで、日頃から、チクチクと妻をけなしていたようだ。だが、見方を変えれば、妻からすれば、このような夫は「1/3亭主」であろう。妻からすれば、どうでもいいことを気にかける。他人との付き合いでも、そのような傾向が出る。

そのような欠点をカバーしていたのは、この女性のような妻であろう。ということは、非常にバランスのとれた夫妻であったと推察されるが、当人たちにとっては、お互いストレスであったかもしれない。

*追記

父の場合は、彼女の夫君同様、こまめであったが、母の領域には手を出さなかった。自分の持ち物に対しては、こまめに管理していたが、母が、生活管理面で、多少デタラメでも、金銭面で、問題なければ、ほとんど何も言わなかった。時々、嫌味を言っていたが。

もちろん、昔の人だから、男子厨房に入らず、ということで、母の妊娠中も何も手伝いはしなかった。その徹底ぶりは、今の若い女性からすれば、即離婚問題に発展するだろう。でも、当時は、それが普通だった。相互不可侵が常識だったのだ。

現在は、妻が、自分の領域に、夫を入れ過ぎる。そして、自分のやり方と異なれば、強い苦情を言い立てる。やはり自分の領域に入れるには、それなりの準備と相手の理解が必要だろう。

そうしないと、妻の側は、どんどん不満が膨らむばかりである。夫にすれば、協力したつもりが、妻の認識とのズレが不満を生む。男女の理解の仕方の違いをお互い理解する努力が望まれる。そして、現代でも、不可侵領域は必要であろう。

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2018年4月18日 (水)

セクハラ禁止法の必要性

度々、セクハラ問題が話題になるのだが、日本では、「セクハラの定義」が曖昧だと思う。異性に対する肉体的接触による不快、または危害を加えた場合は、アウトであろうが、それ以外は、明確な規定はない。企業では、均等法に基づきセクハラマニュアルを作っているところもあるが、海外進出企業を除いて、一般的に普及はしてない。

残念ながら、日本には、セクハラを禁止する法律がフランスなどのようにない。それゆえ、各人のセクハラに対する理解が異なり、曖昧になっている。確かに職場では、男女雇用均等法があり、それ基づく、措置に対する指針はあるが、セクハラの主体は事業主であり、セクハラの加害者は主体ではない。

そのため、セクハラに対する意識が一般に遅れているように感じる。もちろん異性問題とセクハラは微妙な関係にあることも事実だ。これを解消するには、具体的にセクハラに該当する行為を列挙して明確にする必要がある。その上で、加害者に対する罰則規定を設ける法律が必要だ。

それが、はっきりルールとして謳ってあれば、第三者も判断しやすいし、皆、気をつけるだろう。ルール違反をすれば罰すればいいことだ。ところが、今は、被害者当人の個別の判断で感情的にセクハラと理解して訴えているだけだ。

ここら辺は男女の感性の違いだが、男女を問わず、誰にでも理解できるセクハラを禁止する法律が必要ではないか。曖昧なルールのもとでは、いろんな混乱を生じ、いたずらに時間を無駄にするだけだと思う。

*注記

なお、専門家によると、セクハラの時効は3年のようだ。

*追記

財務省福田事務次官が辞職の申し出をしたらしい。今回の件は、他の問題と異なり、多少違和感がある。昔のように、軽口が通用しない時代なのかもしれない。もちろん、次官という立場を忘れ、女性に対して放言したことは問われるかもしれない。でも、若干騒ぎすぎの感がある。

また、ある専門家は録音は編集された可能性もあると指摘していた。もし、そうなら、マスコミ等の追及は誤ったことになる。こんな事件で、有能な人材を国が失ったことは残念だ。ただ、他の官僚同様、驕りがあったのかもしれない。そうであれば、それが元で足をすくわれたと見ることもできる。

*追記

報道によると、テレビ朝日の女性社員が、一年半前から福田氏と会食した際、セクハラを受け、身の危険を感じ録音したとのこと。ただ、どの程度のセクハラなのかは曖昧。作為を感じないわけでもない。取材と報道の関係は複雑だ。もちろん、福田氏の脇の甘さは責められていい。鼻の下を長くしたのだろう。

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